よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

もう一人の自分とともに

俺は自己顕示欲のかたまりだ。認めてもらいたいし、誉めてもらいたし、誰よりも1番に目立ちたい。でも、そんなものくだらいと思う自分もいる。たしかに、年齢と共に、後者の自分の方がどんどん強くなっているのがわかる。そういう意味では、俺の旬の時期は終わったのだと痛感する。

俺は昨日と今日、講演を依頼され、行った。「福祉とは愛である」「愛の反対は無関心だ」と、偉そうなウンチクを並べて、ヒーロー気取りしている自分がいる。少なくても、俺はその限られた時間の中で、ほんのわずかでも、「弱い人の気持ち」「正義の味方になってほしい」というメッセージを伝えているつもりだし、福祉というよりは、人間としてどう熱く生きるかということを説いている。

そう、「お前は何様だよ」っていう、もう一人の俺と共に。

そして、講演が終わると、自暴自棄に陥る。そしていつものように、心も身体も、本当にズタズタになる。そう、闘い終わったボクサーのように、なんだか全身の魂が抜ける。与えるから抜けるのか?それはわからないけれど、自分がとても苦しくなる。そして、そのあとから、ゆっくりと、しつこく問い詰めてくる。「お前何様だよ」って。「人前で話せるような人間にいつなった?」って。「お前の嫌いな大人に、今、お前がなっていることに気がつかないのか」って。だから、だから、怖いから、酒を飲む。潰れるまで飲む。そして荒れる。本当に子供のまんまだ。

俺は自分の考えていることを、感じたことの全てを、正しいとは思わない。若いやつらに、感じてほしいとも思わない。自信がないから、そんなこといえるはずもない。だけど、そんなには間違ってないとは思うし、いつまでも、福祉の信念を貫き通すテロリストでありたいと思うし、政治アナリストならぬ、福祉アナーキストこそ俺の生き様だと思う。

講演の前後に凶器になる自分がいるが、それ以上に人に優しくなれる。それ以上に、しっかりしなきゃと思う自分がいる。「そんなに辛いなら断れよ」とよく言われる。でも、俺は馬鹿がつくほど、お人好しだ。それに、話すこともまんざら嫌いでもない。でも、本当に疲れる。

2日終わったあと、普段は、めったにしないことだが、1人で伊豆長岡温泉へ、電車とバスを乗りついで、ゆっくり温泉につかってきた。別に、それがどうってわけなかったけど、何となく、ちょっと心の整理がついたような気もした。俺が学生に説いているように、「葛藤こそ成長の証」ってさ。

俺は、福祉とは愛だと思う。無関心な大人になっては絶対にいけない。人は、1人では生きられない。弱い奴らの味方じゃないといけない。綺麗事と言われようが、俺はそう思える人間でいたい。

多くの国にあるテロの脅威。それは確かに悪い行為ではあるけれど、もし、俺が、巨体な相手に、家族を殺されたならば、きっと同じことをするだろう。それが聖戦と呼ぶかわからないが、愛が凶器に変わるときだって、俺はあって当然だと思う。

雨の中、1人でのんびり温泉につかりながら思ったんだ。俺は馬鹿だから、人前で話をするような人間じゃない。やっぱり性分に合わない。そんな自分が恥ずかしいから、別の顔をする。そして、悩む、苦しむ。でも、やっぱり俺の周りには家族、仲間がいるから、その苦しみからも立ち上がることができる。待っている人が一人でもいるなら、そこに帰りたいと思う。

俺はこの仕事をしているが、待っている人がいない、帰る場所がない人が、本当に増えていると思う。こんな、自虐的な己の弱い心を考えた時、そんな人達が、本当に不憫に思う。もし、帰る場所を若くして失ったのならば、俺もあいつらと同じように、我を忘れて暴走するだろう。そう、思うと自分が恐ろしくもなる。

でも、だからこそ、俺は無理してでも立ち上がっていくしかない。俺達が、そんな人を待ってあげることができたなら、ここが帰る場所となることができるならば、俺はやってやろうと思う。それが、愛かどうかは知らないけれど、みんな弱いからこそ、助け合わなければいけないのだろう。
それが、福祉なんだよね。

だから、これからももがき続けながら、自分の答えを出すしかない。そう、もう一人の自分のともに。

投稿日:2015/01/23 10:51:15