よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

事故と母の愛!

19歳の時、俺は友達とトラックの荷台に乗って、夜中の町を大音量のロックと共に、酒を煽り、暴れ、踊り狂っていた。それから、気がついたらベッドの上いた。

その頃、集中治療室で寝ていた俺をよそに、両親はただ泣き崩れていた。一時は脳死状態になる危険性もあったものの、幸か不幸か、俺は助かってしまった。

それから数週間の意識はないまま、目が覚めた俺は自分の身体の異変にすぐ気付いた。「あれ?まっすぐ歩くことができない」・・。普通に歩いているはずなのに、なぜか左にそれてしまう。頭が空中に浮いているようにクラクラする。

結局、俺は「平衡感覚の機能」が外部の衝撃によって破壊され、まともに歩くことすらできなくなってしまった。それからリハビリが開始され、手術もすることになった。

ただ、集中治療室で過ごした昼間は楽しかった。悪い仲間が集まって宮沢りえのヌードをみんなで見たり、禁止されているたばこを吸って倒れたり、看護婦にはセクハラしたり、本当にメチャメチャだった。でも、一人ぼっちが怖くて、夜が嫌いだった。

手術の前の日、金髪だった俺の頭はツルッツルの坊主にされた。それを見ていたおふくろはなぜか笑顔だった。「写真に撮ればよかった」って、よっぽど金髪が嫌いだったのだろう。

その夜、「神様なんているわけない」と豪語していた俺は、夜空に向かって祈った。「明日の手術、成功するようにしてください。まだ生きたいです」
怖かった。本当に怖かったよ。
それからはまな板のコイ、されるがまま、全ては医者に委ねた。

「おい、誰か水をくれ、喉がカラカラで死にそうだ」。全身麻酔からしばらく寝ていた俺は、喉が焼きちぎれそうで目が覚めた。時間は覚えていないが、夜中だったと思う。目が覚めた横にはおふくろが俺をジッと見ていた。

酸素マスクをしながら俺はお袋に頼んだ。「悪いけど、喉がカラカラで死にそうだ。何か飲ましてくれ」。お袋は「ちょっと待ってて、先生に聞いてくるから」。しばらくしてから戻ってきた。なにやら胃袋が空っぽな状態で、飲み物を飲んではいけないとのことで、脱脂綿に水を濡らして、口を湿らす程度ならいいとの許可を得た。

早速、おふくろは、ピンセットで脱脂綿を掴み、ウーロン茶を湿らして、俺の唇に「ポンポン・・」とあてがってくれた。
「うっ、うまいよ・・おふくろ。」
(手術終わったんだね?無事に成功したんだね?怖かったよ。かあちゃん怖かったよ)
俺は、そんなことを思いながら、ただ、ひたすら涙が止まらなかった。

「おふくろ・・、ごめんね・・」
初めて謝った。でも、お袋はこう言った。

「仕方がないね。私が生んだ子だからさ」

白い脱脂綿が幻想的な明るさを与えてくれ、水が潤いを与えてくれ、遠くに見えるおふくろは、マリア様のように優しくて、温かい笑顔だった。

今まで散々偉そうなことを言って、おふくろを泣かしてきたのに、その姿は全身管だらけ、身動きすらできない。でも、おふくろは俺の傍から一歩も離れず、夜中もずっと見守ってくれた。生まれたばかりの赤ん坊のように、その時の俺は、おふくろの手の中に優しく包まれていたんだ。だから、いつまでも、親不孝ばかりしていた自分が情けなくて、ただひたすら涙が出た。

「私は絶対にあなたを見捨てない」
 そんな、親の深い愛に感動し、醜い自分に涙が止まらなかった。

 でも、俺ときたら、そんなことがあっても、自分の生活を改めることが出来ず、若さに任せて、メチャメチャな人生を送ってきた。それから7年の間、お袋がガンという病と闘うその時まで、俺は甘えん坊から抜け出せなかったんだ。
投稿日:2008/09/01 19:25:51