よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

H22.6.3スタッフへの文章@

スタッフ各位

前略

 日々の業務、誠にご苦労様であります。お蔭様で「憩の家みち」も、4年目に入り、こうして利用者や家族の笑顔と信頼を頂戴できるのも、皆様の努力の賜物だと思います。様々な局面があったにも関わらず、常に支え、応援してくださったことに、改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございます。
 さて、憩の家みちも4年目。これから変わりゆく介護の世界において、私の個人的見解を述べたいと思っています。それが正しいか誤っているかわかりませんが、皆様に一つの方向性を示す指針として、ご参考くださればと存じます。
 先日、静岡県介護保険室指導課の担当者と長時間打ち合わせをしてきました。本来ならば、こちらが監督される弱い立場であるのに、誠実に対応してくださり、腹を割った話ができました。介護保険制度の問題点を語り、福祉人としてのモラルについて共有し、これから成すべき方向性を話し合ってきました。しかし、そこでは担当長の激励の言葉として、「石津さんの思いはわかるけど、今の介護保険制度では、そこは営業として割り切るべきだ。行政も社会も冷たいから、精神論だけでは生きていけないよ」と説得されました。
 たしかに、自分の福祉道というのはあくまで理想の精神論だけかもしれません。それは、私が26歳の時、夢も希望もなく、落ちこぼれた男の最終手段として、それまでの人生に報いるが如く、この介護の世界に没頭した原点といえるものです。その中身については、くだらない本に書いてある通りです。
綺麗事と罵られようが、私はビジネスとして介護を捉えることが嫌いだし、資格でサービスの良し悪しが判断されるのが不満だし、薄っぺらの専門性なんて必要ないと思っています。福祉とは心であり、どこまでその人の為に尽くせるか、私情を込めて、どこまで介入できるかが大事であり、時に自己犠牲をも伴うものであると思っています。しかし、現実的に今までこうしてご飯が食べられているのも、介護がビジネス化したおかげであるのも事実であるし、その意味で、私の心の支柱とは、矛盾していることかもしれません。
「憩の家みちは、地域住民や関係者から高い評価も得ているし、資格を持っている人もいる。だから加算を取ろうと思えば加算は取れるし、社会の流れに沿って、別に儲けられる部分は儲けてもいいのではないか?」と、役場の方に説得されました。たしかに、経営者として、収入は多いに越したことはありません。しかし、それを得るためには、役所が機械的に作り出した無意味な紙切れの提出が義務付けられていること、そこに費やす時間があるなら、もっと利用者の傍に寄り添って、共に過ごす時間を作った方がよっぽど価値があると私は信じています。ちっぽけなお金を貰うために、役人に頭を下げるのもご免だし、そうした単純な評価しかできないやつらの言いなりにはなりたくないというのが本音のところです。
今の介護業界は、何でも記録です。個別処遇という観点から、その人の身体機能はもちろん、生活環境、過去の生活暦まで調査し、心理まで推測し、それを共有化し、サービスとして実践し、再度検証をし直すという流れの中で、行われています。たしかに、そうした分析は必要なことかもしれないが、私はとりわけ介護の世界というものは、もっとシンプルであるべきで、我々はその視点を自然に持つべきものだと思っているのです。もしも、自分が介護される側になったら、自分の過去や性格まで探られることは嫌だし、その時その場面で困っていることを、ただ単純に共有してくれるだけでいいと思うのです。100のデータを読み取った精密なケアより、人間性を模索し、失敗し、この繰り返しの中で信頼を勝ち取る方が、介護の現場では重要だと信じています。
現代の介護はすべて加算、お金で動いています。普通であれば、利用者がゲームをしたいと要望があれば、それを支援することは当然であり、食後は歯ブラシに行くのもごく自然なことです。でも、その実行した事実を記録として残し、証明し、資格というだけで質を評価され、それを収入という形で差をつける役所的やり方が、私はどうしても許せないのです。
現在、様々なデイサービスが、ニーズに沿った宿泊支援サービスをしています。もちろん、私達も例外ではなく、現に数件の宿泊希望者がおり、今後、やむを得ず実施すると思います。でも、他所の施設ではそれを自費として一万円近い費用を請求していますが、私達は過去にも、そして、これからも徴収するつもりはありません。介護保険制度の中で宿泊支援として制度化されたものはショートステイであり、通所介護はあくまで本業ではないからです。だから、我々はあくまでサービスとしてではなく、無償で行うボランティアとしてそれを実践することで、義務や責任を放棄し、逆に対等な人間として相互扶助の原点の基、お互い気を使うことなく、自然な関わりができると思っています。
たしかに、この決断は自身との戦いであり、体力的には続かないかもしれません。でも、現実的に法律で通所介護事業所が宿泊サービスを法的に定めているわけではない現状、私はそうしたルールに反したやり方、法の網を潜ったサービスは卑怯だと思っています。
今でも私達は、収益の一部を難病支援活動の為に使用し、そのことで福祉を実践していると自負していますが、そうした善意活動は一切理解されず、役所も事業所も、急速に発展する高齢者ビジネスに翻弄され、歯車を合わせるだけで精一杯というのが現状だと思います。
つまり、私の出した結論としては、世の中の情勢を鑑みると、このまま介護保険制度の中で生きることはできないということです。憩の家みちとしては、存続するかもしれませんが、あくまで私個人としては、このくだらない介護の世界には、嫌気がさしたというのが本音です。
正直、土地を提供してくださる方、施設を立ち上げて欲しいという地元の声もありました。小規模多機能型居宅介護の建設も、憩の家みちの増設も、本当に様々に検討しました。今、働いている皆様を正規雇用し、資格や能力で判断されることのない、最高のチームケアを実現しようと燃えた時期もありました。でも、実際、新たな事業として展開することが、自分達の本当の福祉を実現したといえるのだろうかと疑問なのです。おそらく、数字に追われ、役人には色目を使い、地元には気を使い、本当に利用者の為に時間を費やすことができるのか、甚だ疑問なのです。私はそれでなくても、介護保険で飯を食べている自分を恥じているのに、これ以上、俗世間の言うがまま、意に反した介護のサービス向上を追い求め、利益を追い求め、雇用を増やすということに、なんら喜びを感じられないのが本当のところです。
おそらく、実際やったならば軌道に乗せる自信はあります。今のこの素晴らしいスタッフがいてくれば、必ずそれは実現できることでしょう。でも、私も歳を取ったのか、自分の身体のことを考えると、現実問題として数千万借金をするのもバカバカしい。それなら、今こうして最高の仲間と共に、細々ながらも憩の家みちを維持できる方がよっぽどいい。収益も少ないながらもあり、微々たるものだけどスタッフにも還元できる。スタッフの数が多い分、ゆっくりとケアができ、利用者もスタッフも笑顔が耐えない。これからの介護を取り巻く環境はどんどん進化するでしょうが、私達はあくまで私達のやり方で行うことが得策だと考えました。
今ちょっとずつだけどお金を貯めていますが、いつか、そのお金で、スタッフや家族、子供達を呼んで、食事会を開催したい。「あの時はこうだったね」と、過ぎ去った時を回想し、思い出話に花が咲くことが、私のささやかな夢なのです。
投稿日:2010/06/07 10:42:52