よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

夫婦愛から学ぶ福祉の心!

福祉の心とは何か?俺はその答えを探し求め、今も迷走している。介護保険というぬるま湯にどっぷり浸かりながら、本当の福祉の意味を模索し続けている。俺達が日常やっている高齢者や障害者に対するケアは絶対に福祉ではない。サービスとしての対価を得る時点で、その価値は無くなってしまう。福祉サービスという言葉が、一部の人間だけが感じ取るものと形骸化してしまった。

俺は仕事とは別に、多くの高齢者や障害者、難病の方々とめぐり合ってきた。その中で、ALSという難病と闘う待井さんとの出会いは衝撃的で、たくさんの感動を得るきっかけとなった。

難病に罹り、人工呼吸器を装着しない、つまり死を選んだ待井さん。それでも、ご主人の判断で人工呼吸をつける手術を行った。当初は葛藤があったが、「きっといつかは理解してくれる」、そのご主人の一心から始まり、そこから夫婦の葛藤もあり、現在はサービスも併用しながら在宅療養をしている。

そして、待井さんは這い上がり、今はそれを克服するかのように、様々な活動を積極的に行い、不可能と思われたことを、自らの熱意と、ご主人の理解、そして、周りの協力ですべてを可能にしていった。伊豆の一泊旅行、高校・大学の講師、今度は、一緒にラジオにも出演する予定だ。

一度は死を選んだ待井さんだが、ご主人の慈しむ心により、また新たな人生をスタートさせた。夫婦の間のことは、俺達には計り知れない苦労があったと思うが、そうしたお互いの心を察し、理解し合うことは、極めて自然な福祉の心であると思っている。あらゆる障害をも克服し、自らの決断で前に前に進むその姿に、俺達は感銘を受け、生きる勇気を貰い、病と闘う一人の戦士として尊敬している。

福祉とは「するされる」の関係では成り立たない。相互扶助が絶対であり、フェアーな形が自然のルールだ。相手を慈しむ心、夫婦愛こそ、福祉の根幹であると感じている。

昨今、老老介護、認認介護など、様々な問題が発生しており、夫婦間における介護の限界が取り沙汰されている。「介護は先の見えないトンネル」だから、介護する側も身体的・精神的に疲れ果て、時に死を選ぶことにもなってしまう。

そうしたことを防ぐためにも、社会システムを構築することは必要不可欠であり、その為に介護保険がセーフティーネットを担うものでなければならないと思う。

でも、俺は死を選ぶことが決して負の面だけではないと考えている。生きる価値があるなら、死ぬ価値だってあって当然だ。命を大切にするという倫理観は誰しもが理解しているが、それを絶ってこそ生ある倫理観を証明することが認められないという道理が理解できないんだ。
愛する妻を不憫に思うがあまり、夫婦で死の扉を開くことは、社会的にはタブーとされているが、とても、自然で、究極の福祉の心のような気がする。

俺も、自分の愛する人の命が限られたとしたら、医者や家族の反対を押し切り、周りの意見も聞かず、その人が喜ぶ為に、すべてを捧げるだろう。逆に自分に限りが見えたなら、怯える全ての心を包み込み、支え応援してくれる人がいて欲しい。「人の為に尽くす」ということは、医療でも介護でも、宗教でもない、純粋な人の心がそう動かすものだ。

「この人に何かをしてあげたい」
その思いは、社会常識や理屈で解釈できる問題じゃなく、個人のアイデンティティの形であり、それはあくまで、潜在的・直感的・衝動的なもので、それを突き動かす心こそ、まさに福祉ではないだろうか。そして、夫婦が死を選ぶ行為は、その二人にしかわかりえない愛情に他ならず、それが死というタブーな手段は悲しむべきものではあるが、尊ぶべき本当の愛の形のような気もする。

だから、福祉の心とは、決して美しく、清らかなものだけなく、社会的モラルなど通用しない、時に残酷で、狂気的なものに変貌するものであり、それが人の心の「自然の姿」だと思う。
投稿日:2009/07/05 13:21:45