よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

私情を介入してこそ福祉なり!

俺はスタッフに言うんだ。どんどん私情を込めろって。もちろん、最低限のルールは守る必要はあるし、人を見て行わないと大変なことにはなるが、基本的にそれが大事だと思っている。

帰りの送迎中、何か美味しそうなものあったら買って帰りな。よりみちしたいなら遊んでいきな。晩御飯のおかずを買うなら、お年寄りも一緒に連れて行ってあげな。ちゃんと報告してくれれば、何したっていい。ダメなものはダメっていうから、気にしないでやってくれ、と話をする。

変なプロ意識は返って邪魔になる。素のままでいいのだ。

26歳の時、初めて特養で働きだした頃、一人の入所者が亡くなった。俺は、その一報を聞き、感情を移入しすぎて涙でグシャグシャになった。霊柩車を見送る時なんて、ワンワン鳴き叫んでしまった。

でも、その時の上司からこう言われた。「寂しいのはわかるが、お前が泣いていると、他の利用者まで不安がる。だから、涙を流してはダメだ」って。俺は未経験ながら、人が死んでも泣いちゃいけないという理不尽さに首を傾げた。

人が亡くなるということは悲しい、ましてや生前の思いが強ければ強いほど、その思い出が蘇ってくる。それが働いている職員だから、入所者だからという線引きで考えることがおかしい。悲しい涙は自然に出るものであり、それを無理に抑制することはない。もちろん、それで業務に支障がきたすようであれば問題だが、そうでなければ、「とことん泣けばいい」と思う。

泣けないことは、思いが足りないということ。悲しければ泣けばいい。それが故人に対する人としての敬意であると思う。

だから、どんどん私情を絡んでいいんだよ。最低限守るべきルールさえ認識していれば、どんどん私情を入れていい。福祉の仕事以前に、俺達は人間同士だ。人と人の付き合いだって、好きか嫌いかから始まるもんだ。それでいいんだよ。その壁を打ち砕いた時、「もう一歩踏み込む」ことができて、心の安らぎにつながるものなんだよ。

昔、デイサービスのバスの運転手として働いていた頃も、こんなことがあった。その日は給料日、何か気分が舞い上がっていた俺は、夕方、帰りの送迎中、たまたま「石や〜きイモ、お芋」という調子のいい声が流れ、いい香りが漂ってきた。

俺はおもむろに、後ろを振り返り、「みんな、今日俺、給料日だから、内緒で、石焼きイモをご馳走してあげるよ」と叫んだ。10数名いたお年寄りからは歓喜の声が聞かれ、みんなで旨そうに笑いながら食べたことがあった。一緒に同行していた介護員の先輩は、喉に詰まらせなければいいが、とヒヤヒヤしていたという。

たしかに、いろんなリスクを考えれば、その行動はいけないことかもしれない。でも、私情を絡めずして何ができるか?私情を超越してこそ、心と心の交流が初めて生まれるものではないのか。たった一回、ご馳走しただけなのに、その後、利用者からは「みっちゃんが給料日にご馳走してくれた焼きイモ美味しかったね」と、喜びの声が聞かれた。そして、いつまでも、そんな楽しいことが、それぞれの記憶に留めることができたのだ。

「じぁ、他の車で送迎した利用者はかわいそうじゃない」と、二言目には言う奴が必ずいる。すぐ「不公平論」につなげてくる奴らだ。

もし、他の車の人が食べられなかったら、今度はもっといいものをご馳走してやればいいじゃない。それ以上のサプライズを提供すればいいじゃない。市場原理主義だって、そうやってお互いのレベルが向上して成り立つものさ。昔の措置時代じゃないんだ、どんどん自らが開発することでスキルが上がっていくものだ。

そもそも集団での行動には、必ず「差別」はつきものだ。でも、それによって不平不満が出ることは問題があるから、その調整機能は責任としてあるのは事実だ。でも、それを差別と言わず、「個別処遇」と言い方を変えればいい。それに「ごまかす」ことも介護者の腕でもある。

つまり、俺達の達成するものは、近所の評価でも役所の評価でも、偉い奴の顔色でもない。対象者が「感動する」ことが、その基準なんだ。差別が生まれることで、その行動が制限されることが、あまりに無知であり、この業界の得意な「集団処遇の論理」で片づけてしまうのが古い。

介護職員は、専門職というプロであるという認識が大半を占めている。プロだからこそ、私情を絡めてはおかしいと、平然と語る奴も多くいる。実にナンセンスだ。

介護なんて専門職でも何でもない。自慢にも何にもなんねぇよ。それより、介護をすることは、その対象者の手となり足となる存在であるから、もっとその人の心に入り込む必要がある。そうすることで「声にならない声」を代弁できる唯一の存在になり得るのだ。くだらない上辺だけのプロ意識で、そんなことができるわけがないと思う。

もっと感情移入していい。ギリギリまでとことん尽くしてやればいい。どこまで許されるかを判断し、そこまで私情を絡み続ければいい。そうすれば、必ず、その人は振り向いてくれる。そして、一緒に感動を分かち合うことができるはずだ。

俺達は、ロボットを介護しているんじゃない。人間が人間を介護しているのだ。泣き喚くことのできる人物こそ、本当の美しい介護ができるものと信じている。
投稿日:2009/04/30 21:48:52