よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

おくりびととしての正義!

一番辛いことは、うちに来ている利用者やボランティアで関わった方が亡くなることだ。それも、ある程度予測がつくなら心構えもできるが、大抵、それは突然やってくるものだ。時間が一瞬に止まるんだ。「うそ?・・・」と言ってから3秒位。

ただ、出会いがあれば別れもあるのが世の常だし、ましてや俺達は送る側が仕事上多いのも現実だ。だから、俺は独自の筋道を通す形で、亡くなった方への弔いを行う。それがどんな方であろうと、「みち」に関係ある方ならば、同じようにしている。

まず、お亡くなりになった場合、事業者のけじめとして、弔慰金、献花、そして、お通夜か葬儀どちらかには必ず出席をしている。そして、必ず俺達なりのメッセージを添えて、訪問するようにしている。それは、極々当たり前のことであると思っている。

でも、現実的に、多くの施設では、利益を追求するがあまり、それすらできないところもたくさんある。現に俺が以前働いていたところでは、お亡くなりなっても、「そんなこと一人一人にしていたら、きりがないから」との理由でやめた経緯があった。弔電だけで終わらせる事業所も多いのが現実だ。
介護を提供している事業所が、それすらできないところが多いのが情けない。たしかに心の問題であるから、物は関係ないのかもしれない。数も多くなれば、経費もかさむのも理解はできる。ただ、俺はそれは最低限のマナー、それで生活している者の礼儀だと思っている。

そして、ここからは俺達の道理は少しおかしいかもしれない。それをお伝えしよう。

まず、亡くなった故人に対しては、一切、利用料金の請求はしない。情けない管理者かもしれないが、亡くなった故人に対して請求するほど、醜いものはないと思っている。「それはそれ、これはこれ」という論理で請求する所も多く、きっちりしている施設からすれば笑われるかもしれない。たしかに、請求できるものではあるし、利益が少なくなるのは辛いけど、絶対に、故人に請求してはいけない、というのが俺の道理だ。たとえ家族に対しても同じことだ。喪に服し、深く悲しみのどん底にいる家族に、「今月の利用料ですが・・」なんて、口が裂けても言えない。筋道が違うかもしれないが、なんとなく失礼な気がしてならない。

また、これはちょっとおかしいと思われるかもしれないが、俺は、お通夜か葬儀に出席した後、必ず一回はみちに戻る。そして、玄関を入る前の、「お清めの塩」は一切使わない。その理由は、また、その故人に遊びに来てほしいと純粋に思っているからなんだ。霊になってもいいから、また俺達を見守ってほしいという願いがあるから、そうしている。まぁ、色々な霊もつれてこられると困るけど、俺自身では、絶対に悪い方向にはいかないと信じている。

また、俺達は亡くなった後でも、関係は続けている。父の日、母の日には、感謝の思いを込めて花を送り、家族も、そして俺達もその故人を回想するんだ。家族を食事会に招待することもしばしばある。また、壁の写真もいつまでも飾っておく。半永久的に、憩の家みちの壁には、その人の心は生き続けていると信じているからだ。

おかしいこだわりかもしれないけど、それが「送る人間」としてのけじめだと思っているし、だからこそ「正義」なんだ。

俺達は、単なる決められた枠の中で、決められたことをやればいいだけではない。それじゃ、単なるそこいらのサービス業者と変わらなし、ここを立ち上げた意味もなくなる。
こんなちっぽけな家でも、どデカイ愛情を持って関わること、そして、やがて別れが訪れた時は、誠意を尽くして送り出したいというのが俺達のビジョンだ。

大きな施設で、利用者の数を増やし、集団処遇ばかりしている介護事業所に、俺達と同じことができるわけがない。利用者の数が増えれば、関わりも自然に薄くなってしまうのは当然だからだ。

俺達は、ある意味、「おくりびと」なんだ。だからこそ、もっともっと、個人へ介入し続けなければいけないと思っている。誰もが順番で旅立って往くのを、「それで終わり」と片付けるのではなく、「これからもよろしく」と、俺達は後ろから温かく見守り、力強く応援する義務があるのだ。

それが「みち」の正しい道理、つまり、我々の正義だと信じている。
投稿日:2009/04/26 20:46:38