よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

怒られることの有難さ!

俺は事務所では一番偉いのだが、よく従業員に怒られる。「家長、いい加減にしてくださいよ〜」「誰こんなことしたの〜、また家長?」とすぐ叱られる。経営者とはいえ、現場では俺が一番使えないスタッフ、ペーペーだ。

でも、俺はそれでいいと思っている。あくまで「現場重視」、組織では現場で働く人間が一番偉いと考えている。だから、怒られることも、別に苦とは思わない。何かあった時に立ち上がればいい。むしろ最近では、怒られることに快感を覚えている、反省しないしょうもない男だ。

18歳の頃、権力を持つことに憧れていた俺は、仕事場の先輩を通じて、ある20代後半のヤクザの方と知り合った。ダブルのスーツを着て、センチュリーを乗り回し、車内に備え付けの電話で話す。「おい、今から若い衆連れていくから、準備しとけや」。そして着いたところが、銀座の高級クラブ。表の顔をしか見ていないけど、その人は本当にカッコいい人だった。

店ごと貸切り、同じ人間とは思えない程綺麗なお姉さん達に囲まれて、まさに幸せの絶頂だった。なんか高そうなお酒もがぶ飲みし、ついその人に、「俺で出来ることならなんでもやります!」と、先輩と一緒に頭をさげた。それから数日後、俺は偽のブランドバッグを売る仕事を任された。

別に組員になったわけではないけど、そういう方々とのパイプを持てた自分が、何か「強くなった」ような錯覚に陥っていた。だから、犯罪とは認識しても、認めてもらおうと自分なりに努力した。怖さももちろんあったが、それよりも強さに対する憧れが勝り、仲間にひたすら電話をかけまくった。「頼むよ、カバン買ってくんない?」と売り込んだ。

そして、ある親友から、呆れた声でこう言われた。

「イッチよぉ、そんな奴らと付き合っていると、俺、友達やめるから」

その言葉が心に響いた。そんな権力という看板の為に、大切な友達をも裏切ってまで、非合法的なことをする自分が情けなく思えた。その時、親友がやけに大きく見えて、一方、この俺は醜い弱虫の何者でもなかった。

その時の「戒め」こそ、「気づき」に変わり、俺は先輩に土下座してその仕事を辞めさせてもらった。これが組員になっていたら、きっと大変なことになっただろう。弱い自分を隠そうと、強い仲間に接触し、その権力を振りかざすことが「強さ」だと勘違いしていた自分。それは、あいつが俺を怒ってくれたから、立ち直ることができた。

それでも、水商売をしていた20代前半の頃の生活はメチャメチャだった。浅草にいた頃は、背中にピカソに似た絵画が書いてある人、麻薬の吸い過ぎで左の鼻が溶けている人、10秒に一回勝手に左手が上がるアル中の人など、俺は一定の距離は保ちながらも、そんな人と連れ合うことで、怖い反面、弱い自分を偽ることができた。

今は時効だから言うけど、麻薬に己を染めたことも何度かあった。親が知ったら泣くことを承知の上で、俺はその時の雰囲気に流され、逃げることばかり考えていた弱い男だった。

それでも、元ヤクザ屋さんで、執行猶予中の先輩からよく殴られた。レゲエを聴きながら2人で大麻を吸っていたら、突然怒り出し、「石津は止めとけ、俺はいいんだ」と言い出し、取り上げられたりもした。

「お前は、本当は真面目な人間なんだ。俺達とは違う。だから、麻薬なんて手を出して、人生台無しにするな」と、ろれつが回らないながらも、怒られたことがある。その人は覚醒剤の密売でパクられていたから、「悪の美学」に憧れていた俺を戒めてくれたのだろう。

しかし、本当に馬鹿なことをやって生きてきた。でも、どこかで必ず誰かが怒ってくれた。だから、「まともにならなきゃ」って、心のどこかに思っていた。その具体策はいつまで経ってもわからなかったけど、無意識にも危機感はあったんだ。

何度も脱線していたが、怒られることで、その都度元のレールに戻ることができたのだと思う。

でも、年齢を重ねるにつれ、次第に怒ってくれる人は少なくなる。怒られる幸せというものが、だんだん感じられなくなる。だから、ある意味、怒られるのは、子供の特権なんだと思う。年寄りになって、息子や孫から怒られることもあるだろうが、それは「呆れている」言葉であり、全く意味が違ってくる。

お年寄りが「寂しい」と訴える要因の一つに、「呆れられた孤独感」「諦めの絶望感」があるのだと思える。人生の大先輩に対して、「怒る」という表現は失礼かもしれないが、「諭す」ということであれば、我々もその手法を学ぶ必要があるだろう。

本当の意味で「怒る」ということは、愛情という根底がり、その上で、正しい道を教え導き出すものであり、魂を込めて表現するからこそ、熱くなる、手が出る、涙が出る。真剣だから怒るわけで、嫌いなら見捨てるだろう。今の教育者も、怒ることを忘れた奴らが多いが、それは逆に真剣に怒られてこなかったエリート集団の集まりだからかもしれない。

小さい頃、よくオヤジに殴られた。そして、お袋にはよく泣かれた。そんな両親が、こんな俺を、いつも真剣に怒ってくれたから、ヤクザな道は踏まずに済んだのかもしれない。多くの先輩の忠告があったからこそ、福祉を志す、今の自分があるのかもしれない。

怒られてばかりも問題だが、怒られないのも寂しいものだ。適度に怒られる、ヤンチャな中年でありたいと思う。
投稿日:2009/04/14 22:41:21