よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

「別にいいじゃん」の法則だ!

Aさんは腎機能が悪く、人工透析を迫られている。でも、本人は酒が飲みたい。家族も半分諦めており、「本人の好きなようにさせてあげてください」とのこと。本来であれば、タブーかもしれないが、俺はその人と二人で居酒屋に行って酒を飲んだことがある。久しぶりの酒を堪能し、男同志、ほろ酔いで帰った思い出がある。

「別にいいじゃん、本人がそれでいいって言っているんだから」それが俺の考え方の原点だ。プロとして、それは、いい加減に聞こえるかもしれないが、それこそが究極の自己決定の尊重だと思っている。

介護事業所において、あらゆるリスク管理をすることは大事だと思う。俺達も高いお金を出して、万が一の為に保険はちゃんとかけている。でも、俺は基本的に、「自己責任」であると思っている。当然、介護事業所として最低限の誠意は行う必要があるが、何をするにも「自己責任」の原則があり、そうでないと我々の身体ももたない。

それに、全て介護事業所の責任にされては、楽しいことも実現できなくなる。新しい発見ができなくなる。ただ、いつも通りに食事して、お風呂に入って、ではバイバイじゃ、この仕事の魅力は全くない。

基本的に本人や家族が、「それでいい」というなら、一体、他にそれを妨げる要素がどこにあるだろうか?その人の夢がそれで叶えるならば、多少のリスクを背負ってでも行う価値があるのならば、それは当然実行してしかるべきである。

俺は基本的に、「できないことを前提に考えない」。必ず、「できることを前提に考える」よう努力している。

お酒を飲んじゃいけない。それは誰が、どんな根拠で言っているのか?全く飲んじゃダメなのか?何ccならいいのか?ノンアルコールビールではいいのか?

俺は医者だろうが、家族だろうが、役人だろうが、誰だろうが、必ず、実現可能なことを探すようにしている。多少の妥協はしても、どうすればそれに近いものができるのかなど、模索し、そのような働きかけをする。それが、プロとしての役目だろう。

多くの高齢者施設において、介護職と看護職との関係性について、問題になることがしばしばある。介護は理想を掲げてご託並べるが、看護師の医療からの立場だとそれができない。そんな温度差が、お互いの職種間の溝を更に広くしている現実がある。だいたい、介護職員の知識が薄く、看護師連中に言い負かされて、悔しい思いをしていることが多い。それは、介護のレベルが低いから仕方のないことだと俺は思う。

「介護職は、根拠のない理想主義者が多く、看護職は、夢のない現実主義者が多い」

どちらも同じ方向を向いているはずなのだが、置かれている立場で、こんな障害が出てくるのが現実だ。うちの職場のように、看護師が率先して「別にいいでしょ」というところも珍しい。でも、そうした障害を、上手く調整をするのが、相談員の役割であり、本人や家族の意向も踏まえて、いかに両者の整合性を求め、何が一番ベストな策かを導き出す。そこに、相談員としての力量が試されると思う。

基本的に、お年寄りが、「あれをしたい」なら、それを実現させる義務がある。声なき声に耳を傾け、家族にも聞き取りを行い、身体機能を十分に考慮しながら、何が可能かを絞り込む、それがプロの技だと思っている。

なんでもそうだが、ニーズを形にするには大変な労力を費やすものだ。料理を作るにしても、様々な調味料を使い、味付け、火加減、盛り付けと、長い過程を通る。家を建てるにしても、材木からサッシ、家具など材料を選び、多くの専門職が関わり、一生の買い物といわれる城を築きあげる。

つまり、俺達も利用者の夢があるならば、あらゆる困難な過程があるのは当然だし、専門職同士ぶつかり合うのは当たり前なのだ。だからこそ、「形にする」という絶対的な意思決定がなされているならば、それを乗り越えることが当然であり、そうでなければ本物の形は実現できないであろう。

無理なこともあるだろう。それなら、実現可能なメニューを提示すればいい。「それはできませんが、うちはこれができます。」そうしたパターンをいくつか用意し、それを選択してもらえばいい。そのメニューこそ、もろに「介護力」が現れる。

「ごめんなさい。○○さん。それはできないのよ」と、終わってしまう施設は、介護力はゼロと言っても過言ではない。

あらゆるニーズに応えるには、必ずリスクは付き物だ。十人十色の欲望を満たすには、その何十倍もの危険と隣り合わせが当然のことだ。

でも、そこでやむを得ずとは思わず、何が危険なのか?どうすれば可能なのか?を吟味することに意義がある。その上で、夢の実現の為のプロセスにおいて、危険を予測したシュミレーションを行い、その部分はプロの義務として行う。しかし、現実的に、何があるのかわからない部分は自己責任でやむを得ないと思う。むしろ、そうした関係が、「するされる」ではない、本当に正しいフェアーな関係だと思う。

俺なんて、頼まれたら「いいよ」って何も考えず答えちゃう。だから、いつも皆に怒られる。でもよ。「石津さん、あれしたいんだけど・・ダメかね?」「あぁ、別にいいよ」って、気持ちよく答えてあげたら、嬉しくないかな?

困ったことあったらよ、その後ゆっくり考えればいいじゃねぇか。まずは行動ありきよ。こんなこと言ったら怒られるけど、どう考えても俺達より先は長いとは言えない。だったら、ガン首ならべて論じている暇なんてないよ。介護と看護がちまちま喧嘩している場合じゃないんだよ。

やってやれよ。お前らのできる範囲で、できる答えを出せよ。
そうした積み重ねが、これからの福祉社会を成熟させていくものだと思うよ。

「別にいいじゃん」、それを合言葉に、前向きに考えるべきだろう。

投稿日:2009/04/11 18:28:02