よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

福祉とは慈悲である!

慈悲の「慈」は、自分と同様に他者を慈しみ、愛して、安楽を与えること。「悲」は、他者の悲しみを自分の悲しみとしてその苦しみを取り除いてあげること。

慈悲とは、仏教用語で用いられる言葉のようだが、今は我々の日常の言葉として浸透している。この俺も、「慈悲」が根底にあり、今の考えに結び付いている。お釈迦様じゃないし、神様でもないから、難しいことはわからねぇ。でも、福祉を行う人間は、そんな「慈悲の心」を根底に持つことは必要不可欠だと感じる。

慈悲の心= 相手を気遣う心であり、自分の自制する精神

悩みをかかえている人は、その悩みをだれかに話すだけでも癒しになる。解決方法を的確に示せるなんて神様じゃないから無理な話だ。ただ、傍に連れ添い、「そうですか、大変ですね」「それは御苦労なさりますよね」、そんな相槌を打ちながら親身になって聴くことが大事だと思う。相手は答えなんてほしくない、聴いてもらえる、共感してもらえる、そんな心のやすらぎを求めていることが多い。

俺みたいな若造が、何十年も生き続けた大先輩の相談を受ける。息子夫婦に冷たくされて愚痴る言葉も、仲間がまた一人この世を去る孤独の言葉も、そして、自分も早くあの世へ行きたいという逃避の言葉も、すべてに「生ある苦悩」という重みがドッシリ圧し掛かる。

聴くという字は、「聽」の略語であり、耳と壬・直と心、に分解できる。つまり、耳で聞いた言葉を、大事に抱きかかえるように掬いあげ、まっすぐな思い、素直な心で、自分の悩みと同じように感じ取るもの、それが「聴く」であると解釈している。

その「聴く」を実践する意味において、慈悲の心が根底にあることで、自分を冷静に見ることができる。自分を客観的に評価できるようになる。そこまで自分の潜在的能力を持ち上げていかないと、相手を傷つける結果になる、だからそうした努力を我々はしなければならない。

「悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて、他を利するは、慈悲の極みなり」最澄

そしてまた、感謝する言葉を忘れてはいけない。
「有難う」。どんなことにも感謝の意味を込め、相手に伝えるこの言葉はとても大切だと思う。「有難う」=有るのが難しいと書く。つまり、めったにないことだから、その行為に心から感謝すること。仏教では、感謝することを心施(しんせ)という。日常生活において、そんな繰り返しが、慈悲の心を向上させていくものだろう。

よく仏教では、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、つまり、すべての物事はたえず変化し、影響し合っている。何ひとつとして独立して存在するものはない。それなのに、不変のものとして、それに執着しているから苦が生じる。その執着がなくなれば、安らかな気持ちになれる。という教えだ。

この世はすべて無常である。この自然も、可憐に花咲く人生も、終わりが必ず訪れるのはたしかだ。諸行無常だからこそ、すべてを「空」の心でとらえ、それが幸せに導き出す一つの知恵なのかもしれない。

でも、そうした教えが苦しむ涙をなくす為に存在すると仮定するならば、それは逆に喜びや感動の涙をも失うことを意味するのではないだろうか。つまり、もし仮に、無というものが人生の終着駅とするならば、愛し合うことも、いがみ合うことも、笑うことも、泣くことも、ひとつの「命」という流れの中で起こっている「有」の存在であると思うんだ。

無の境地に、自ら追い込むことば、逆に俺は悲しいと感じる。宇宙の法則では、「宇」は限りない空間の広がり、「宙」とは限りない時の流れと説いている。しかし、そんな空間や流れの中の一部として考えるのはあまりにも虚し過ぎる。

俺達は限りある「有」の存在であるからこそ、苦しいのだ、悩むのだ。「命」という一つの流れの中で、我々は生きている。手足が不自由だろうが、子供だろうが老人であろうが、当たり前に皆平等にあるのは「命」だ。それを尊重し合うことが大事なのだ。たしかに限りはあるだろうが、その「一瞬」を輝かせることができるのも、また命ある存在の魅力であると思うんだ。

諸行無常は理解できる。しかし、それは苦を取り除く教えであり、真白に燃え上がる炎のように、充実した人生の教えではないと思っている。なぜなら、そこには「命」が存在し、何よりも尊いものであるからだ。

だから、人生というものは、誰も関与できない、己のみぞ知る、有の流れだ。何も人間だけじゃない、犬も猫も、草も木も、この地球上にある生命そのものが、同じ線上にいる。その長さや太さで、人が人を評するなんて絶対にできない。なぜなら、評する人間も同じ「有」の線上にいるからだ。

「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究意とす」弘法大師
我々のごく日常の心が悟りそのものであり、生きるものすべてを救うには、限りない仏の慈悲と我々の実際の行動が必要である。

だからこそ、俺達はやるべきことがあるのではないか。それを実際の行動とする中で、慈悲の心を持ち続けなければ、真に人々を救うことなんか出来やしない。「有」ある存在を否定せず、それを認めてあげること、包んであげることが、大事だと感じる。

不条理なこの世の中を、少しでも幸せに生きる為の教えが仏教であり、それを実際の行動で示すものこそ、福祉道であると感じる。

俺は何の才能のない凡人だ。だかこそ、慈悲の心を、常に持ち続けなければならない。
そして、今日がある幸せ、明日が来る奇跡に、俺達は心から感謝しなければならない。
投稿日:2009/04/05 21:14:44