よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

規則に立ち向かえ!そして、強い信念と結果を残せ!

物事に筋道を通し、規則に則り物事を遂行するのはとても大切なことだ。でも、時に、それを犯してまでも逆らわなければならない時があると思っている。

平成20年12月、俺達はボランティア活動として、高校生の教え子を中心に、吹奏楽のボランティアバンドを結成した。それから、何件もの難病患者のお宅や高齢者・障害者施設へ慰問に行き、多くの方に感動を届けることができた。そして、生徒一人ひとりにも、心温まるふれ合いを通じて、福祉の大切さを伝えることができた。

スピーディーに実践することが大事で、誰からの許可も得ることなく、すべて生徒の行動に任せ、俺はマネージャーとしてサポートした。

でも、本来であれば校長先生や吹奏楽部の顧問の先生に話をするのが筋道だろう。何か問題が発生したとき、責任等のリスクもあるだろうし、本来であれば、俺のやった行動は、間違っていたと思う。

しかし、それを実現するのに、なぜそんな遠回りをする必要があるのだろうか。目的は、困っている人に感動を届けることであり、その行動は生徒個人の善意に他ならない。たまたま「学校」という属性にあるだけで、そこに許可を得て、是か非の会議が開かれ、その行動が遅くなることを懸念する。

結果的に、俺達の行った活動は、新聞やラジオに取り上げられ、その正当性が認めざるを得ない状況になり、暗黙の了解となった。つまり、俺達は「結果」を残したから許されたわけだ。

なんでもそうだ。ルールを破ることは決してよくないことは誰でも知っている。でも、それが為、「時を逃す」ことは意味がないと思う。難病で苦しんでいる人は、明日どうなるかわからない状況だ。多少、道理に反するとはいえ、俺は「命」を絶対の優先順位にすることで、自らの機敏性を高め、判断材料の一つとしている。

規則を破るなら先にやらなければ意味がない。二番煎じでは意味がない。認められるまでは朝敵と言われるが、認めてもらえれば、それが新しい「規則」となる。そうした反社会的な行動は、「変わり者」と揶揄され、それが浸透することで、新しい社会が訪れる。

「事を処するには決断を要す」=事を行うには適切な決断がある。遅すぎると優柔不断、早過ぎると軽率判断となる。

俺は昔から、「猪武者」、考えて行動するのが苦手で、思い立ったらすぐ実行に移さないと気が済まない男だった。行動ありきの思想は、「規則」という大きな壁にいつもぶち当たる。ろくに学問もしないのに、ウンチク垂れていたから、俺は昔から、規則だのルールだのというものが大嫌いだった。

「なんで太いズボンを穿いちゃいけなんだ?では何で売っているのか?」
学校の制服も、よく叱られたけど、考えたら、太いズボンを売っている業者が悪いのであって、「規則を守れ」なんて大人は言っているけど、別の大人は規則に反するものを売って飯を喰っているのさ。

「児童の有害サイト」「携帯のプロフ問題」等々、結局今まで好き勝手に売り上げを伸ばし続けていた企業の、利益主導主義が招いた産物みたいなものだ。それで今度は「学校への携帯持ち込み禁止」だって・・。俺は笑っちまうよ。

子供は一体何をした?大人のマネをしただけ、そして自分達の新しい「遊び」としただけの話だ。それを大人達が招いた問題にも関わらず、大人達自らが子供に制限を設けるなんておかしな理屈だと俺は感じる。でも、それが悲しいかな「規則」になるんだよ。

それが放置国家、いや法治国家なんだよ。

馬鹿な大人が子供を買春する。尊敬されるべき先公どもが、馬鹿みたいに教え子に手を出して問題になった。それが結果的に、児童買春防止法ができた。本当に、ばかばかしくてやってられんわ。

今のガキ共は、大人を舐めている奴が多い。それはルールを作る大人達が悪いのだから仕方がない。自分達の都合のいいように「規則」を作り、そこから新たに温度差が生まれる。いつまで経っても尊敬される大人は増えてこないだろう。

ある中学校では、設立当初からの校則で、「男は坊主」というのが決められていた。それが最近、数名の生徒から不満が出て、保護者と弁護士がタッグを組んで、校則を変えよう動きがあると新聞で読んだ。

賛否両論あると思うが、こんなくだらないことをよく大人はやると思う。それは誰だって坊主はいやだろう。でも、その学校では伝統で、昔から受け継いでいたものだ。それが、一部の子煩悩な馬鹿親のせいで、簡単に覆されてしまうのはどうかと思う。

時代と共に法律を変えることは大事であるが、伝統という教育文化を否定することはこれからの日本を背負っていく逸材にとって、決してプラスにはならない気がする。

たしかに子供からは喜ばれるだろう。でも、それは一時のもので、校則に従うことで、「属性」を養い、集団生活の中で生きるルールを学ぶものだ。先生に対する尊敬心と恐怖心は、そうした校則を基に成り立っているようにも思える。

「権利」があれば「義務」もあるように、「自由」があれば、そこに「責任」があることを忘れてはいけない。

今の世の中、やたら「自由」を訴える奴が多すぎる。それに「責任」がついてくるということを、まずは我々大人が考えなければならないと思う。そして、それを子供達に伝えていく責任があるのだ。

話は変わるが、今から6年前、もう時効だからいいや。
以前、高校講師をしていた頃、テスト監督をやっていた。そこで、どうしても赤点になりそうな奴がいた。30点以上じゃないと赤点、つまり留年、退学が決定する。でも、見るからに30点は採れてない。

俺は監督をしながら悩んだが、何問かこっそりテストの解答を教えてやった。もちろんいけないことはわかっているし、もしそれがバレたら、学校もクビだろう。でも、考えたら、俺は学校をクビになっても飯は喰えるし、痛くも痒くもねぇ。でも、こいつは、チャイムが鳴っちまえば、退学となり、これから何十年も生きる人生、きっと後悔すると考えた。

だから、こっそり指で、「ここはここ、次はここ」って教えちゃったのだ・・。

たしかに、こんなルールに反することは絶対によくない。でもそいつは、無事卒業し、今でもあの時のことを感謝している。どっちがいいか悪いかなんてわからないが、結果的に俺の不誠実な良心がもたらした行動に、感謝する人間が一人いることはたしかだ。

今までの人生、俺は規則を破って生きてきた。でも、それは孤独との闘いであり、結果がついてこなければ、ただのバカで終わるというのも知っている。強い信念と行動が伴わない限り、悪知恵の大人が作った規則なんて変えられるわけがない。

「学問は古なり、為は今なり」吉田松陰
さぁ、今こそ立ち上がれ、行動を起こせ、そして結果を残せ。

福祉道は、命の限り感動を与え続けることを旨としている。たとえ100万の敵がいようと、法を犯すことがあろうとも、自らの信念を貫き通し、1人の感動の為に戦い続けること、それが福祉魂の規則である。
投稿日:2009/04/04 20:18:03