よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

煩悩を捨て菩提となれ!

『人に甘く、自分に甘い』、俺は典型的なダメ男。だから、よくみんなから怒られる。

ある男性の18歳の時のエピソード。東京の上野で一人暮らしをしていた。当時離れて付き合っていた彼女が、電車で1時間程の所にいた。自己中心的なその男は、ある夜中、酒が足りなくなり、エッチもしたくなった。己の欲求を満たすために、夜中その彼女を呼び寄せた。

「おい、今からタクシー飛ばして来い。来る途中に酒買って来いよ」

しばらくして、その健気な女の子はビールを数本買ってきて、男はおもむろにそれを奪い、一気に飲み干した。それからその子をベッドに連れて行き、エッチをし、事が済んだら一言。
「もういいよ、帰って・・。」

そんな関係が続いたある夜、彼女はその男についに牙を向けた。喧嘩で逆上した彼女はついに刃物を手に取り、こう言った。
「あんたみたいな最低な男なんて、殺してやりたい!」

以上、小劇場終わり。誰の話かはご想像に任せます。

でも、俺は自分で煩悩の塊だと思う。旨いもん喰って、高い酒飲んで、女にキャーキャー言われたい。クルーザーかなんか乗っちゃって、水着のおねえちゃんに「お〜い、シャンパン持ってこいや〜」とか言っちゃって、加山雄三みたいにギター片手に唄ったりしてよ。
「海よ〜♪、俺の海よ〜♪」って、いかにもロマン溢れる男を演出して、内心はスケベなこと考えてな・・。

でも、そこまでやると今の俺にとっては、「許せない男」になるから、絶対にしないし、できない自信があるな。

けど、少なからず似たような煩悩はあることは事実だ。「福祉とは心である」とか、偉そうなこと言っているけど、その内心はどっぷり俗世間に染まった凡人に過ぎない。

でも、最近歳をとったのか、金銭欲や色欲、権力欲も低下して、昔のような強欲さがなくなった。いや、福祉の道を志してから、それはあってはならないものだと、自分で言い聞かせた結果かもしれない。

でも、俺達は煩悩を絶つことなんて出来やしない。むしろ煩悩が生きる活力になり、すべてが負の要素ではない。煩悩を否定せず、むしろ人間の欲望を生命力の溢れるエネルギーとしてとらえ、生けとし生けるものすべてを救済する活力と考えるべきなのかもしれない。

別に、俺達は出家するわけじゃないんだ、すべての煩悩を断ち切る必要もない。ただ、宗教の教えには、俺達福祉人にとっても、何かヒントになるものが隠されている気がする。

たとえば、般若心経は「空」の教えを説いている。「空」とは「こだわりのないこと」「とらわれないこと」「かたよらないこと」。つまり、こだわりの心やとらわれの心が煩悩を生み出し、苦悩の原因となるとしている。

また、法句経には、「自己こそ自己の主である。他のだれがまさに主であろうか。自己をよく制御されたならば、その人は得難い主を得る。」「勝利からは怨みが生じ、敗れた者は来るしんで暮らす。勝敗を捨てて、やすらぎに帰した人は、安楽に暮らす」と、お釈迦様は我々に苦を取り除くヒントを与えてくれている。

俺は別に宗教家じゃないから、詳しいことはわからないが、対利用者に対して、「苦」を取り除くという観点で言えば、まったく別のものとは限らない。そうした教えを自分の精神的な安定剤として胸に秘めておくことはとても大事だと思う。

また、よくお坊さんが修行を行う。修行を行うことで煩悩と闘っているのか、それを達成することによって何が得られるのか、俺には全く理解できないけど、少し考え方をかえれば、俺達が普通に勉強したり、筋トレすることも同じことではないだろうか。

俺は今でも毎日筋力トレーニングはしている。それは、自分自身で、身体力と精神力というのは、両方が兼ね揃わなければ、適格な助言はできないと感じたからなんだ。マラソンをするのも苦しい、ベンチプレスを上げるのも辛いよ。でも、結局のところ、鍛えることは己との闘い。自分をそうした極限まで追い込むことで、筋肉という形で身体力を高め、経験や知識を深めることで精神力を高め、人を助けることのできる「心のゆとり」が生まれてくるのだと思う。

だから、俺は福祉の携わる多くの人間が、ある程度、自分の本心にある「欲」を抑えこみ、真に人から喜ばれる救世主に近づく努力が必要だと思う。綺麗事ばっかり言ったって始まらない、肉体的・精神的に強固な心構えを磨くために、出家までは行かなくても、ある程度、人生においての経験を踏まえ、「悟りに似た」境地に至らないといけないような気がする。

「最大の敵は自分である」俺はいつもそう言っている。

福祉という業に携わることで、凡人である自分とそうでない自分、相互が常に闘っている。「もういいじゃないか」「いや、もうちょいやってみよう」。そういう繰り返しが、精神的な合理的安定をもたらし、「狂人」を演出している自分を震えたたそうとしている。

福祉人のライバルは自分。煩悩を可能な限り押し殺し、幸を導く聖人に近づく努力をしなければいけないと思う。勝負に負けたっていいじゃないか、でも、己には負けちゃだめなんだよ。

若いころ、よく勝負に負けて挫折していた。学力にも、腕力にも誰かと闘いを挑み、負けて大きな心の傷を負ってきた。そして、弱い者に平気で権力を振りかざし、深い傷を相手に負わせてきた。そんな勝ったり負けたりする生活の中で、一体何を得ただろうか?
まったくの「無」だったと今は感じてしまう。

お釈迦さまは、苦の原因は無明と説いている。無明とは、無知のこと。無知だからこそ、行動を起こそうとする意識作用や、識別・認識作業に間違いが生じる。

でも、そんな間違いを起こすのも人間の魅力だし、「苦」も、全くないじゃ、つまらんし、逆にそこから掴んだ感動もひとしおだろう。だから完璧でなくてもいいんだ。何も仏教の教えが全てではないし、援助する人もされる人も、煩悩を絶ち切る必要もない。葛藤があるから人間は醜く、そこから這い上がるから美しいんだ。

ただ、援助者の心構えとして、福祉を志す者には、ある程度の煩悩は断ち切らざるを得ないこと。そうした葛藤において、重要なことは修行、つまり己に勝つこと。その努力をすること。そうすれば、「苦」を的確に取り除くことができ、真の救世主に近づくことができる。

そして、それが達成して初めて「菩提」となり得るのだ。

まぁ、そうは言っても、俺は、酒には負けっぱなしですけどね・・。
投稿日:2009/03/29 22:54:10