よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

先ずは認知症を笑え、楽しめ!

「最初はいいから、認知症を笑っちゃいな」、俺は学生によくこんなことを言う。

その行動を見て、最初は「おもしろい」でいいから、腹の底から笑い飛ばせ。相手を傷つけないものでなければ、笑顔はみんなを幸せにする。おもしろい行為をよく観察して、よく噛みしめて楽しめ。そこらの、くだらない芸能人のライブよりか、よっぽど面白いぞ。

俺が一番おもしろかった話をしよう。
ある認知症の男性が俺の横にいる。俺はデスクワークをし、その男性の前には一冊の料理本がある。俺は自分の仕事をしながら、チラリと横にいるその男性の顔を見る。

すると、その男性は、その本の表紙にある料理写真に目を奪われている。「からあげの写真」だったか、まばたきもせず、ガン見状態だ。

やがて、ゆっくりと右手を挙げ、人差し指をそっとその写真に近づける。そして、からあげが載っている写真に人差し指をソッと触れ、その人差し指をゆっくり、自分の口の中に入れた。でも、首を傾げて、何やら悩んでいる。どうやら味がしないらしい。

それから、その男性は、その料理本ごと自分の口に持って行って、ペロッとなめた。2回、3回と、顔の前にからあげの位置を確認しながら、舐めている。
そして、また首を傾げている。やはり味がしないようだ。

それから、近くにあったお皿を持ってきて、一生懸命その写真の料理を、自分の持っているお皿に移そうとしている。本を高く持って、お皿を下に置いて、一生懸命移そうと本を振っている。
そして、また首を傾げる。

どうやら、ようやく諦めたか、料理本とお皿を机の上に置いた。
しばらく2人の間には静寂が流れる・・・。

それから数分が経った時、今度は横にいる俺の左足の靴下に書いてあるマークが気になったようで、じっと俺のくるぶしを眺めている。それから、ゆっくり人差し指が俺の左足首に伸びてくる。そして、そのロゴマークをチョンチョンと触って、それを口の中にペロッと舐めた。

俺は、この一連の動作を見て、申し訳ないけど笑えた。この業界、認知症の人を笑うことなんて、もちろん御法度だ。プロとしてそれで飯を喰っている以上、その行動の背景を探り、適切な援助をしなければならない、というのが教科書に書いてある言葉だ。

当然、プロとしてはそのままで終わってはいけないが、往々にして認知症の行動は純粋に笑えることがある。だから、学生には、「最初はいいよ。笑って楽しみな。」と言っている。
テレビのように、誰かの演出でやっているものではない。まったくの「素」のまま。その人の考えた行動が、予測不可能であるから面白いんだと思う。

認知症の利用者とオセロをした時、たまに黒と白の色が入れ替わる。そうすると、俺は今まで考えていたものと全く逆になる。「えっ〜?優勢だったのに・・」、そんな言い訳は通用しない。その方が白と黒が入れ替わった時、ルールも変わるのだ。

また、五目並べをした時、俺はとっくに5つ揃っているけど、相手は永遠と碁を打ってくる。「参った」と言わない以上、俺も差し続ける。結局、最後は碁盤がすべて碁で埋め尽くされてしまう。そして、俺は同時に頭を下げ、「参りました」と言い、その方は「はっはっはっ」と笑いながら満足気だ。

オセロで白と黒が突然逆になったり、五目並べが全部碁盤に置くゲームに変わったり、それが予測できないから、面白い。それじゃ、ゲームではないと思われるかもしれないが、それは俺の中のルールであって、その方のゲームはまだ純粋に続いているんだ。

以前、認知症の男性の方が部屋にいると、いつの間にかリモコンが無くなる事件が多発した。それを探すのが楽しいこと、楽しいこと。それがティシュボックスの中、トイレのごみばこ、味噌汁の中、タンスの隙間・・。本当に宝探しゲームでワクワクする。

もちろん、家族にとってみれば、それは苦痛になることは当然理解できる。でも、同じことを我々が対応している時、どうやってその行為を楽しむことができるかを考えることは大切だと思う。

グループホームで夜勤をした時なんか、10時頃に入居しているおばあちゃんを寝かそうと一緒に部屋に行ったとき、「あんたもここで一緒に寝よう」と誘惑された。戸惑う俺をよそに、そのおばあちゃんはいきなり立ち上がり、亡くなった夫の遺影に手を合わせ、「お爺ちゃん、ごめんなさい」と言い、また布団に入り、「はい、あんたこれでいいよ。さぁ、来なさい」って。

もちろん丁重にお断りしたけどさ、楽しくって笑いが止まらなかったよ。

そんな感じで最初は笑えばいいと思う。プロだろうが面白ければ笑ってもいいだろう。でも、次のプロセスを考えればいいものだ。「何でそうなったのか?」「その原因はどこにあるのか?」、そして「同じことが起きた場合どう対処していくか?」。それを考えればそれでいいだけだ。

認知症の対応について、騙すことが得意な職員は腐るほどいるだろう。認知症というだけで、「まともな判断が出来ない人」とレッテルを貼ってしまうから、そんなことが平気で出来てしまうものだ。つまり、介護職員は詐欺師が多いってことだ。

でもさ、逆に、こちらが騙されることも大事じゃないのか。「黒といえば黒、白といえば白」、それでいい。相手の方が上手だと考えればそれで済むことなんだ。

仕事も、恋愛も、この社会全体も、騙し騙され合うものであるならば、その対象者が違うから自分のルールを優位な方に変えることはおかしい。それを「卑怯者」というのだ。

営業をする時、俺は色々な人と接触し、お互いの腹の探り合いをする。ペコペコ頭は下げることは苦じゃないが、それを見ても挨拶すらしない奴なんて腐るほどいる。でも、認知症の方に深々と頭を下げたら、だいたいの方は「止めてください」「そんなご丁寧に」と言い、その行為を身体を張って止めさせようとする。その上で、その一連の行為を、やさしく、受け入れてくれる。

さて、それだけを見ても、何がまともで何がまともじゃないのかわからなくなる。オセロの白と黒が変わるものと、一体何が違うのだろうか?どちらが正しいなんて、言える権利が我々にはあるのだろうか?

その行為自体が、「素」であること。つまり「純粋」であるものなんだ。
この社会全体も、嘘と偽りの世界が多くあるだろう。でも、これほどまでに、純粋で、美しい、「笑」が他にあるだろうか?作り上げた「笑」じゃない、自然な「笑」だけに、本当におもしろい。美しいほどにおもしろいんだ。

おもしろい行為には笑え、楽しめ、語れ。ただ、それで終わるな。もっと個に介入せよ。
そうすれば、また違ったおもしろ味があるものだ。

高杉晋作の言葉を借りるなら、
「おもしろき、ことのなき世をおもしろく」
「すみなすものは、福祉なりけり」
投稿日:2009/03/16 18:55:59