よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

介護は技術じゃねぇ、常識では考えられない芸術なんだ!

人間は絵画を見て感動する。音楽を聞いて感動する。
様々なものを見て、聞いて、人は心を揺さぶられ、人の心を開き、生きることの感動を味あわせてくれる。それが芸術だ。

そう考えると、まさに介護の仕事は芸術そのものだと思っている。百戦練磨を潜り抜けて生きてきた大先輩を、介護というキャンパスに描く。認知症のおじさんをどう描くかは、俺達次第なんだ。その表情も、刻一刻と変化するものであるし、それは常に「旬」でなければならない。

料理にも旬があるように、介護にも旬があると俺は思っている。
その旬は、その時々の利用者の身体状況、表情、発語、臭いなど、様々に考慮し、適格な処遇をもって、安らかなものに仕上げていく。昨日やったから今日同じなわけじゃない。あの草花と同じように、俺達人間は生きている。つまり進化しているから、その都度「旬」があるわけだ。

「旬」=「適切な介護」<「100%の満足」

音楽も、料理も、陶芸も、絵画も、どれも100%なんてあり得ない。それが芸術であるかないかの判断は、あくまで個人の主観的なものであり、それは極めて曖昧なものである。だから、「完全な料理」がないように、「完全な介護」も、この世にはないと思う。

でも、よく「介護技術」という言葉が使われる。俺は、介護を技術という言葉に結び付けることが、「技術」というものに失礼で申し訳なく思う。じゃ、俺達は技術者?なんか変だよね。

介護なんて技術になり得ないし、なったら正しいレールが敷かれてしまい、想像性、独創性がなくなってしまうから俺は嫌いなんだ。個人の可能性をいかに見出すことができるか、ひとつの物体を、どのようなアプローチをして、鮮やかに見せることができるのか。それが介護芸術の根幹でなければならない。

役割が明確な「物」を作り出すものがエンジニアの役割とするならば、俺達はそうじゃない。失礼な言い方だが、その人の素材をどう生かして料理を作るか、白紙のキャンパスにその人をどう描くか、どう彫るか。舞台でその人のステージをどう演出するか。だから、俺達は、技術者的な要素ではなく、もっと、直感的で、人間的な、心から表現する芸術者でなければならないと思う。

介護技術なんてものは、ほんの付録に過ぎない。

岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言った。たしかに、介護の仕事している奴らには、頭の中爆発している奴もいるけど、そんな奇想天外のことを表現していくことが本来の介護、福祉の姿なんだと思う。

それに、昔のような「絵にかいた年寄り」なんて少ない。俺達よりも知識も金も暇もある連中が、どんどん介護を必要としてくる。一筋縄じゃいかない介護なんて当たり前だと思う。それこそ、裸で心からぶつかっていかないと、最高のケアなんて出来っこない。

話は変わるが、ちょっと笑い話。
これは、俺の友達と有料老人ホームの経営に関して話があった時のこと。1階食堂、2〜6階が居住空間、それで最上階の7階は「高齢者専用のソープランド」を作ろう、と話になった。高齢者だって性欲はある。金もある。ちゃんと、そばにはソープ専属看護婦がいて、何かあったら対応もOK。そのサービスの中身も、ちゃんとケアマネージャーがプラン立てる。なんだったら、そこの居住者に働いてもらっても・・。

絶対ニーズはありそうなんだけどな。
まぁ、社会的に許されん話だわな。

それか秋葉原に、「メイド老人ホーム」を作って、従業員全員メイド服着せて、「ご主人様、おむつを交換させて頂きます」っていうのはどうか?
まぁ、それも社会的には許されん話だわな。

でも、俺はそんな冗談も、これからだんだん冗談じゃなくなり、現実化してくる日も近いように感じる。サービス化した介護を想像すると、なんかゾッとするよな。

ただ、そもそも常識なんて通用しないのが介護の世界。「美」を追求する芸術性を、俺達はもっと考えなければいけないと思う。技術に頼るのではなく、己の価値観を磨くことこそ大切ではないだろうか。

あらゆる仕事に100%はあるし、それを出せるか出せないかは「技術力」「精神力」が必要だ。でも、人の満足に100%なんてあり得ない。たとえ出せたとしても、それは、ほんの一瞬に過ぎない。俺達は、そんな「一瞬」の為に、その期を逃さず、全力で関わっている。その人が満足してもらえるよう力を注いでいる。だからこそ、「芸術力」であるのだ。

答えがないから介護は楽しい。予想しているように物事が終わらないから楽しい。しかも、その人の人生においての「生」の最後の作品に同席できるようなものだ。だから、この仕事は止められないのだ。

種からつぼみになり、やがて一輪の可憐な花を咲かす。そして、やがて枯れて地に落ちる。
人の一生も、この一輪の花と同じである。
だから、俺達は、「美しい人生」であるよう、プロデュースする責任があるのだ。
投稿日:2009/03/15 23:10:15