よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

医療、宗教、福祉は三位一体!

俺の兄貴は出家してお寺の坊さんだ。だからこんな形で宗教を語ったら、それこそ何倍にもなって返ってくるだろうから恐ろしい。それに、宗教というのは人間の人生を、世の中のすべてを変える力があるから、あまり変なことも言えない。まぁ、あくまで俺の視点で、この3つの関係性を述べてみたい。

「医療は生の世界を、宗教は死の世界を、そして福祉は生と死の『狭間』の学問」である。いろいろと語弊はあるだろうが、福祉馬鹿な俺はそう解釈している。

医療は病気と闘い、生命が維持していく中で、それは現実的・実存的なものであり、そして、宗教は、生命の尊さを探求する中で、精神的、思想的なものであり、そのどちらも兼ね備えているものが福祉、つまり、両者をつなぐパイプ役のようだと思っている。

逆に言えば、福祉なんてなくても問題がない。人間社会が形成していく中で、身体と精神の健康が維持されれば、何より幸せなことではないだろうか。つまり「生老病死」という4つの苦があるならば、単純に考えたとき、ハード面が医療で、ソフト面が宗教であると思うからだ。

まぁ、宗教というと、色々な解釈の仕方があるから、詳しくは語れないけど、俺が言う「宗教」というのは、そのことで心が安らぐものとしての存在でしかない。俺は宗教なんて信じないから関係はないけど、そういう「心の拠り所」がある点で、その存在は大きいと感じる。

日本の政治も党利党略を繰り返しながらくだらない論争をしているが、遠くの国は宗教対立で戦争もしている。宗教は「架空」のものであるから答えがない。でも、その人にとっては「絶対的なすべで」だから衝突しやすい。

宗教は絶対的な存在であり、一方、医療も、治療という観点でいえば絶対的なものである。でも、福祉というものは、決して絶対的な存在ではない。その曖昧さが、グレーゾーン的な部分が、空想的にオブラートに包み込んで「幸福」というものを表現しているから誰が見ても美しいと感じる。

宗教というものが、人々の幸せになるための教えであるならば、それを、技術を用いて具体的に幸せに近づけることが福祉であり、その使命は、孤独の窮地を救い、医療でもない、宗教でもない、人間として、支え合い助け合うことの大切さを説くことである。

つまり、福祉人はなんちゃって聖職者なのだ。

身体的に支える「医療」、精神的に支える「宗教」、そして、社会的に支える「福祉」。これらの3つが、相互に関連し合い、生活に直接関わり合うことで、人々に「幸せ」が訪れるのではないだろうか。

昔から、心技体という言葉で表すが、「心」は、つまり“気”であり精神的なものを表し、十分な気迫、鍛錬、残心など、つまり「宗教」であり、「体」は文字通り体、つまり健康な体、しっかりとした体力、力強さ、つまり「医療」だと思う。そして、まさに「福祉」とは、「技」。つまり、生きる術を学び、精神力と身体力の双方を加味し、自分の人生を充実させる、「技」を磨くことだと思う。困っている人のために心から尽くすことは、福祉の心、つまり生きる技を学ぶことなのだ。

心と体を更に強固にするには、そこに福祉魂という「技」が必要であり、剣の道でも、その3つがそろって初めて「一本」が取れるのである。だから、どれも「本気」でやらなければいけないということだ。

生き続けようとする姿は美しいものであり、その為にはあらゆる苦しい戦いに挑まなければならない。死の存在で怯え苦しむなら、神様の教えを学べばいい。そのことで心の安寧が得られるはずだ。そして、俺達は生あり死ありの苦しむ人間の本来の姿を、体も心も、社会も環境も、すべてを温かく包みこんであげることこそ、福祉の魂であると思う。

でも、誕生・青春・労働・老後・死亡・・・、そんな一つの流れの中で、俺達の「生」という一瞬があるならば、結局のところ「医療」も「宗教」、そして「福祉」も、命という同一線上にいるだけの、とても、ちっぽけな、くだらないものだとも思う。

お釈迦様は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」という真理を説いた。俺のこうした考えも、「無常」に他ならないのだろうか。
投稿日:2009/03/06 22:15:13