よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

冷たい味噌汁の話!

俺がその86歳のお爺ちゃんと出会ったのは今から6年前。2歳年下の認知症のお婆ちゃんを抱えながら生活していた。そんなお爺ちゃんと俺はとても仲良くなり、色々な話を聞くことができた。

お爺ちゃんとお婆ちゃん、そして息子夫婦と孫二人。6人で暮らしていた。でも、同敷地内に別居状態で、老夫婦二人で、ひっそりと離れで暮らしていた。息子夫婦は共働き、子供は学校、いつも二人だけ。職人で仕事一筋のお爺ちゃんと、それを黙って支えてきたお婆ちゃん、歳を取った二人はもう邪魔者扱い、息子家族との交流もなく、孤独な生活だった。

そして、おばあちゃんの認知症が現れ始めた60代前半の頃、たまたま味噌汁に火をつけたことを忘れて、鍋を焦がす事件があった。そして、それ以降、「火を使ってはならない」と制限されてしまう。

その後の二人の生活は孤独だった。毎日食事は作ってくれるが、嫁は鍋のまま離れの玄関に置いておくだけ。いつ置いたのか、なにがあるのかわからない。でも、お爺ちゃんとお婆ちゃんは、その玄関に置いてある食事を家の中に入れ、言われるがまま、冷たいまま、二人で分け合って食べていた。

そんな生活を20年、続けていた・・。

そして、ある時、お爺ちゃんは決意した。「家を出よう、こいつ(妻)を置いて先に死ねない。だから一緒に、死に場所を探しに行こう」。そう、言って、お爺ちゃんはすべてのお金を下ろし、タクシーからタクシーへの乗り継ぎ、電車に乗り、偽名を使いながらホテルに泊まり、いわば、「死への旅」に出た。

カバンの中には一本のロープ。それは、首を吊るためのものではなく、お婆ちゃんの腰にロープを巻いて、一緒に崖から飛び降りようとするためだった。

旅は続く・・。少しでも記憶が戻って欲しい一心から、2人で旅行をした思い出の場所を巡った。箱根、熱海、それから四国へ。そして、寒さ厳しい日本海へ・・。
結局、息子夫婦から捜索願も出ており、それから数ヶ月後に、保護されてしまう。

俺が出会ったのは、ちょうど連れ戻されて、何日か経った頃だった。お爺ちゃんは憔悴しきった様子で、何も話そうとしない。お婆ちゃんは、何もわからない様子で笑顔で俺を迎えてくれた。

それから数カ月後、ようやくお爺ちゃんと話ができるまでになった。そして、今までの悩み苦しんだこと、家出までの決意、死にたいが死ねない切なさを、涙ながらに聞くことができた。

20年のいう長い間、冷たい味噌汁を飲んでいたこと。ごはんも冬場は固くなって高齢者では不向きだ。それでも、生きるために耐えて頑張ってきたことなど、懇々と話し始めた。

「石津さん、私達のこの苦しみがわかりますか?私達は犬や猫じゃないんですよ」そう、泣きながら叫んだ。

お婆ちゃんと一緒に死ぬという決断に至った経緯について、お爺ちゃんはこう言った。
「崖上に立って意を決しようと思い、ロープを妻の身体に巻きつけると、たぶんあいつはわかるんですよ。『おじいちゃん、怖い、怖い』って、あいつは胸で泣き喚くのです。私にはどうしてもそれができなかった・・。生きるも地獄、死ぬも地獄、私達はどうすることもできなかった」

この話を聞いてから、何度か交流を重ね、次第にお爺ちゃんの閉じていた心は徐々に広がりを見せていった。そして、お孫さんの協力もあって、現在は在宅生活を継続している。抜けがらのようになったお爺ちゃんではあるが、これからも、認知症の世話は「俺しかいない」と話し、それが生きがいとなっている。

俺は、このお爺ちゃんとの出会いは、現代高齢問題の裏側を映し出しているものとして捉えている。もちろん、家族の事情もあるから、我々が入り込むにも限界がある。そして、「同居」とはいえ、実際には同敷地内に別居していても、同じように扱われてしまう現実的な問題がある。一見、「同居」=「安心」と思われがちだが、だからと言って「孤独」が解消されるわけがないということだ。

このお爺ちゃんの気持ちを考えると、なぜか気持ちが切なくなる。よほど苦しまれたのだろうと、こちらも辛くなる。でも、決して他人事ではなく、たぶん俺も同じ状況であれば、同じことをするような気がする。

安泰な日が続いているが、今でもそのお爺ちゃんのカバンの中には、一本のロープは入ったままである。心が揺れ動くことのなきよう、俺はただ祈ることしかできない。
投稿日:2009/02/26 19:25:03