よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

常識を壊した時、心のバリアフリーが生まれる!

常識。コモンセンス。一般の人が共通してもっている、またもっていなければならない知識、理解力、判断力・・・だってよ。

俺は、小さい頃から常識のない男と呼ばれてきたから、あまりこの言葉が好きじゃない。
「何をもって常識と判断するか?」「そのものさしは何だ?」とつい言いたくなる。

教壇で福祉について論じていると、俺はつい「常識を壊せ」と言ってしまう。
つまり、福祉とは常識では通じない世界ということなんだ。

ある60代の認知症の男性が、夜中、一人で冷蔵庫から勝手にパックに入った鶏肉を生で食べた。朝、そのことに気付いた家族は仰天した。もちろん、最初は身体のことを心配したが、特に異常はなかったらしい。

そんな話が実際あった。でも、それって、常識に反することなのだろうか?俺達だって馬刺しとかレバ刺しとか肉を生で食べることもある。どう違うのか?鶏肉だから?新鮮じゃないから?その区別はどこからどのようなラインを引いているのか、俺は、それこそが、「常識」という名の仮想世界が、俺達の脳を邪魔しているような気がしてならない。

レストランの前には偽物の商品サンプルがケースの中に美味しそうに飾ってある。それは偽物だと認識しているけど、美味しそうにも思う。でも、俺達はそれを口にはつけないが、認知症の方なら口につけるであろう。でも、考えたら、普通の人間としての当然のしぐさではないかと思うんだ。「偽物だから口につけてはいけない」という我々の常識が、逆におかしいのではないかと考える。

ある認知症の女性が、赤い風船を抱いて笑顔で我々に話しかけた。「ねぇ、見て、これ、美味しそうでしょ?よかったらみんなで食べて。」、そう言って、笑顔で手渡した。もちろん、俺達は、「ありがとね。美味しくみんなで食べるからね」と返した。
風船を美味しそうだと思ったことと、商品サンプルが美味しそうだと思うこと、一体何がどう違うのだろうか。俺は、極めて一緒のことだと感じる。

冷蔵庫から自分の靴が出てくる。タンスからは果物が出てくる。何でそのような言動になるかは当然個々のケースで考えなければならないが、その行動には必ず意味があり、それは常識では計り得ないものだと思っている。

常識的に物事を考えるより、極めて自然で、動物的行為で、それこそが当たり前の行為のような気がする。常識というものさしは、人それぞれ違うものだし、曖昧なものだ。

たとえば、手足がない四肢切断をしている障害者の方と出会ったとしよう。俺達は心のどこかに「可哀想」と自然に思ってしまう。つまり、四肢があるのが常識だというものさしがあるから、その人を「可哀想」と感じてしまう。いや、もっというなら、「障害者」という言葉そのものが存在していることがよくないことだ。

「ふつう」というものが「常識」と捉えるなら、ノーマライゼーションなんて嘘っぱちだと感じる。ハード面のバリアフリーは、時代と共に進んでいくが、重要な心の部分が置き去りになってやしないだろうか。

俺はこう考える。常識なんて通用しない。ふつうなんて言葉がいけない。そして、そうした固定観念が考え方に弊害を及ぼす。すべての常識と呼ばれる「ものさし」をぶち壊し、何より俺達は「人間という動物」であることを認識することこそ、差別のない「心のバリアフリー」が実現できるものではないだろうか。

人は、どんな人でも、人なのだ。
投稿日:2009/02/24 18:07:06