よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

福祉は平和ボケした社会の産物だ!

福祉社会は思想。思想というのは夢想、空想であり、本来はまぼろし。そのまぼろしを実現しようとする“狂信狂態の徒”が必要だ。

俺も、そんな人間になりたいと強く思う。

でも一方で、海の向こうでは生きるか死ぬかの戦いでドンパチやっている現実がある。たくさんの子供や女性の一般市民が犠牲になっている。公権力に逆らい切れず、逃げ惑う人々。死を嘆き、憎しみを抱き、更なる戦いに挑む人々。

同じ地球で暮らす俺達は、今、平然とした中で、「福祉の大切さ」を懇々と語り続けている。平和ボケした俺達との、そんな温度差が現実にある。でも、結局のところ、同じ人間だから、最終的には“生か死”というものに行き着くような気がしてならない。

たくさんうんちくを並べても、結局は生きるか死ぬかであり、死ぬ人のために何ができるかなんて、今は自分がその立場ではないから呑気に考えられる「ゆとり者」の行動だと感じる。

以前、こんな話を聞いたことがある。ガンジス川で、人間の死体が流れて沖に引っ掛かり、それを犬がむさぼるように食べていた。その光景を見た日本人は驚き、目をそむけたが、地元の方はどこ吹く風と平然としていた。

平和ボケ社会にどっぷり浸かっていると、一瞬ひいてしまうけど、考えたら我々も動物だし、それが自然なのかもしれないと思う。俺も中国で犬の肉を食べたことがあるが、犬が人間の肉を食べることは、「タブーである」というのは、人間が勝手に作り出した「仮想世界」に過ぎないと感じる。

犬は生きるために食べた。「どう生きるか?」なんて考えてない、「生きる」ことが全てなのだ。
人間のように、生きることを前提に、その将来を展望して悩み・苦しむことは、むしろ幸せなことかもしれない。

だから、福祉だの宗教だのって言っていることが幸せな気がする。

「人は生きる為に争うものであり、生きる為に助けあうものではない」という思想は、福祉の考えに逆行するものではあるが、自然界にとっては、“生か死か”という単純な理論、おかしくもなんともない。


吉田松陰が、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」と言っている。

俺は福祉を天職と思っているが、目指す福祉は思想に過ぎないと感じている。生きる為に必要なものでも、死ぬ為に必要なものでもない、まったく意味のないものだ。

そうした空想的な社会を現実のものにするには、“狂”、つまり、固有の狂気がなければ、弱肉強食の自然界を変えることはできないんだと思う。

人間には知恵がある。困ったら支えあえる力がある。先輩方が死をもって築きあげた幸せな社会、それを次世代に引き継がなければならない義務がある。

そうして歴史は変えられていくのだと思う。

平和ボケした日本人の、くだらない仮想の福祉社会を俺は論じている。それが、一つの歴史を変えられるきっかけとなれるよう、「強人」ではなく、「狂人」となるべきだろう。

俺達は犬じゃねぇんだからよ。
でも、そういえば、昔の女に、「あっちへホイホイ、こっちへホイホイ、あんたって野良犬みたいな人ね」って言われたことあったっけ。
投稿日:2009/02/14 12:26:43