よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

正義とは一体なんぞや!

「すみません〜、通信機器の市場調査にご協力をお願いします」と静岡市街を歩いていると声をかけられる。大きな心で協力してやろうと思うも、ガラケーと知るや否や、「あっ、失礼しました」って鼻で笑われ去っていく。しかも、四人も立て続けに。嫌味のように・・。「ガラケーで何が悪いんじゃ〜」

あと、つい最近、Wi-Fiの意味を理解し、仕事場でもそれが使えてたことを始めて知りスタッフにも馬鹿にされた。回転寿司にいけば、スマホで優先的に予約した奴が、待っている俺らを抜いて悠々と席に座り、電車で遠出するにも、時刻表の本とか見ながら、時間かけて、わくわくすることもなく、クリック一つですぐにわかる。うちのレクも、前は本を見ながら試行錯誤したもんだが、今はスマホで調べる始末だもんな。便利すぎてつまらんわ。

IDOの昔の携帯を若い衆に見せたら、「バブリーですね」って笑いやがる。ちくしょ〜。昔はポケベル使いながらテレカでおねぇちゃんと長電話したもんだ。3流営業マンのこの俺でも携帯を持つだけで「この人できる」なんて思われたもんだ。本当に時代は変わったな。

この前、スマホに向かって声をだすと、ちゃんと答えて反応してくれるんだもんな。驚いたな。自分の居場所がわかるし、これから行く場所までしっかり案内してくれる。これならどんなに酔っても安心だな。いずれ人の会話するのを忘れてスマホが良き友となるんじゃないか心配している。

でもさ、何か「監視」されているみたいでどうも嫌なんだよね。欲言えば携帯すら持ちたくないぐらいだ。たしかに時間を短縮できるのはいいし、ゆとりがあるのはいいけれど、そんな時間に振り回されることが嫌いなんだ。自分で何時何分の電車に乗って、その先をどうするか考える。長い数字の中から、長い時間をかけながら決める。主権は己であり、そんな無駄が楽しいし、それ位、心にゆとりを持たないといけないんだよな。

俺は昔から最先端というのが嫌いだし、着いて行きたくもない。そんなくだらん物に、そんなものに振り回されて、いつしか「道具に使われている自分」に気がつく時があるもんだ。俺もこの前、飲みすぎて携帯を忘れてしまい、電話しようにも手段がない。連絡先も覚えてない。そんなもんだ。携帯やスマホの方が身近であり、相棒になっている。そんなちっぽけなものが一つないだけで、現代人は右往左往する姿は、本当に情けないと思う。

でも、俺はこれかも天然記念物だろうが、頑固な偏屈爺さんでもいいが、意地張って、ガラケーで行くぜ。でも、意地を張るということは、そこに「信念」があるということなんだ。

ダーウィンの進化論か。変われない人間というのは結局は滅びていくものかもしれんけど。
でも、そんな馬鹿な信念を貫く正義こそ、男の姿だと思う。

でも、つくづく思うんだ。なら、正義ってなんだろう。俺は常に、「この福祉の仕事というのは、困った人を救う正義のヒーロー」という持論があり、多くの学生にそれを伝えている。正義のヒーローなんて、特撮ヒーローとか、漫画の世界だけしかないのかもしれない。

桃太郎が正義の為に鬼退治に行き、ヒーローになった。でも、やられた鬼に子がいたら、その子は親の為に桃太郎を復讐するだろう。それも正義だと思う。つまり、「正義とは信念」であり、それは個々に違うものなんだ。

もっといえば、正義なんて持つから、争いが生まれるかもしれない。何が正しいかなんて神様じゃないからわかるはずもない。でも、その中でも、人間は常に何が正義か?を探して生きているのであって、祖先でもある長州藩士は、そうやって時代を変えていったと思うと誇りに思う。

俺達福祉人は、「困った人を救うことが正義」として考えると、単なる上から目線の同情的自己満足に過ぎないと思う部分が多々ある。正義に燃えるのはかまわんが、それを押し付けるようになってはそれで終わりだ。

たしかに、何が正義なのかわからない。ただ、目の前で泣いている人をほっとくような人間にはなりたくない。助けを求める人を、見て見ぬフリするような社会では絶対によくない。それが正しい選択として、個々に信念を持ち続けることが大切であり、それが誇りになると思う。

俺がガラケーを持ち続けることも、ズボンのジャージを靴下にインするのも、俺流の正義なんだよ。

とはいえ、結局はどんな世界でも同じさ。正義とは勝ったものだけが語れるもの、勝てば官軍なんだ。俺のように、弱い人間、いずれ滅び、朽ち果てる人間は、本当は正義すら語ることはできないんだ。

先日、ここの近隣の保育園に例年と同じようにウルトラマンの格好をしてお菓子を配りに行ってきた。もうこの活動もかれこれ、6,7年やっている。「みんな正義のヒーローになりなよ」と伝える。そして、子供達は大喜びで「ウルトラマン〜。ありがとう〜」って手を振ってくれる。

俺は偽者だけど、その、ほんの一瞬だけでも、正義を体験させてもらえることは、すごく幸せな瞬間だ。そんな「純」な言葉が、汚れきったこの身体に浴びせられ恥ずかしい思いもした。でも、誰かが言っていた、「人生はできることを精一杯やることであり、できないことを後悔することではない」。今できる正義の形を示すことはとても大切であり、そのヒントは子供達の笑顔に隠されていると思う。

「信念」を貫くには「孤独」が必要だ。つまり、正義を掲げる為には、まず「孤独」という己との闘いに勝たなければいけないと思う。

人間にとって一番卑しむべきことは、人を差別することだ。生まれた環境は変えられない。生き方だって、そう簡単に変えらえるものではない。人間は間違える生き物であるからこそ、正しい道を探し出すことができる。弱い立場であっても、少数意見であっても、自分の考えをしっかりと持ち、また、他者を受け入れ、共に成熟することであり、それを牽引する人こそ、真のヒーローであると思う。

ウルトラマンは闘いが終わると、必ずM78星雲へ帰って行く。故郷か、愛人宅か、飲み屋か、我々地球人は知るよしもない。だから俺も、闘う力を養う為に、正義の為に夜のネオンに消えていく!そう、未来の子供達の笑顔の為に・・・。
って、なんじゃそりゃ!
投稿日:2018/04/24 14:57:13