よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

そろそろ本腰をあげるべか!

 先日、何気なくしゃがんだ時、いきなり前触れもなく腰に激痛が走った。それも、今まで経験したことのない痛みで歩くことすらできなかった。咳をするにも、くしゃみをするにも痛い、少し動いただけでも電気のように鋭い痛みが全身を駆け巡った。
 その夜は全体会議があって帰ったのが10時前、すぐに横になったが、痛くて眠れないし、寝返りすらできない。朝一番で病院に受診し、腰骨が少し曲がっているのもあるけど、椎間板の軟骨がずれて、それが神経を圧迫しているのではないかとの診断だった。曲がっているのは性格だけかと思ったけどな。でも、仕事は休めないから、痛み止めの注射と座薬を行い、それから数日、仕事は行くも、杖がないと歩けない日が続いた。でも、その時、本当に杖や押し車の有難味がわかったかな。年寄りから「私の杖貸してあげるよ」って言われて、嬉しかったけど、どっちがケアされてんだかわかったもんじゃないよな。
 とはいえ、本当に最近の体力の衰えを実感している。「前はこんなことなかったのに」「体力には自信があったのに」と、おそらく多くの先人達が、同じように老化と対峙していたように、その現実が我が身に起きていることをしみじみ感じる。もっとも、白髪や目尻のしわの量をみれば、何となく現実はわかってはいたけど、多くの先人達と同様に、それを認めようとはしなかった。
 まさに「心・技・体」、心は精神力、メンタル。技は技術やテクニック。そして体はフィジカル、筋力や持久力を表す。まさに、これが一体となることで、本気を出せるわけだ。
 俺はそれまで、心が全てだと思っていた。特にこの業界、それだけあれば充分だとさえ思っていた。その精神力を鍛える為に、毎日筋力トレーニングもしていた。ただ、技は自分から学ぼうという姿勢はなかった。介護の技、経営の技、大人の技。今までの俺は、パンクスピリットという名の元、熱い心と鍛えた体だけで押し通し、外部のあちら側の奴らが作り出した技を否定することで自らの技にしようとしていた。
 それが今、誰かの手助けがなければ、寝返りすらできない自分がいる。利用者の杖を借りて、ようやく歩いている情けない自分を省みた時、その支柱は、俺の腰骨のように揺らいでいるのがわかる。
 まぁ、若い頃から、散々無茶してきたから、その罰があたったと思うけどな。
 俺は常に現場主義。上の立つ人間ではないし、なれる素質もない。考えることの嫌いなこの単純馬鹿は、だからこそ、365日毎日常にできる精一杯の仕事、行動をすることで、自分の弱さを隠そうと研鑽してきた。
 でも、やっぱり、体が第1だよな。これがなければ心もついていかない。俺が杖持ちながら、フラフラしている状態で「熱い介護してみせます」って、説得力ないもんな。
 それに技もしかり。悲しいかな、これからの介護業界も、俺の思いとは逆行し、様々な技術や専門性が求められる時代になりつつある。「ばかやろう、福祉は心だ。熱い心があれば介護なんて誰でもできるんだよ」と散々、言ってきたけど、その俺の持論も、そろそろ修正を余儀なくされるだろう。奴らのくだらない技とやらも、学ばなければいけないほど、くだらない世の中になっちまったということだ。そんな俺の考えも、骨と一緒で世間とはずれており、単なる負け惜しみの言い訳だな。
 今までは、健康の「け」の字も考えたことはなかった。何年か前に、喉と大腸にポリープがあったと言われたっきり、検査なんてしてない。もちろん、行くのが怖いからなんだけどね。だから、俺は昔から、その日を過激に過ごすことが全てだったし、「あいつは馬鹿だねぇ」って、遺影を見ながら笑われるのが、一つの俺の生き様だと信じていた。でも、もう46歳。そろそろ、考えとやらを改めんといかん時かもな。
このままだと腰抜けと言われるから、そろそろ本腰をあげないといかんかもしれん。
 もちろん健康馬鹿になるつもりはないが、自分の力で歩けなければ、困っている人のそばに行くこともできない。力が入らなければ困っている人に手を差し伸べることもできない。人は、まず自分が強くなければ、人には優しくなれない。そのことを、今回は本当に学ぶことができた。その為の、歳相応の健康維持ということは、必要かもしれないな。
 とりあえず、一杯飲みながら、磨り減った軟骨を焼き鳥屋で補給してくんべか・・って、駄目だこりゃ。
投稿日:2016/11/15 11:08:18