よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

崩壊の美学

俺はこの世界で発展することを放棄した。もう十分成り上がることができたし、自分の身の丈から考えれば、もうこれが限界、これ以上やれば天罰が下る。だから、その決断は必然的に、崩壊の一途をたどるだろうが、別に悲しむべきだけのものではなく、それはそれなりに美しいことだと思う。

脳裏に打水の如く湧き出る思想と不安に怯えるように、ただ馬鹿を演じる思想家か。または、シドヴィシャスのような激しく燃えて散りゆくロックスターなのか、俺はそんな美しすぎる惨めさに対する憧れがどこかにあった。

東京の上野で一人暮らしをしていた18歳の頃、近所に行きつけの焼き鳥屋があった。そこに銭湯帰りに寄ると、何も注文しなくても、いつも決まって黒ラベルの瓶ビールと砂肝が2本出てくる。そこの大将、本当にいい人だったけど、アル中で、末期の方は手の震えが止まらなくて、ビールをコップに注ぐことすらできなかったっけ。

でも、俺はその人が大好きで、本当に毎日のように通っていた。きっと、あの人は、このまま自分も店も壊れていくのをわかっていたんだと思う。抜け出せる術も知っていたんだと思うけど、結局は破滅の道を選んだ。波乱万丈の人生を終わりにしようと、ただ崩壊へのカウントダウンを待っていた。俺は、ただ純粋に、男として、そんな生き様に敬意を表したい。

かなり昔、俺もドラッグにのめりこんだことがあったけど、アホな評論家の言うように、その人の意思の弱さもあるかもしれないけれど、どんな物よりも、それ以上に目の前に最高のエクスタシーがあるならば、誰だって自然に手が伸びる。その快楽を覚えてしまえば理屈じゃなく、自然に手が伸びるし、それが普通の人間だと思う。よほど、それによって愛する全てを失うなど、自分のどん底までに追いつめることができないと、その無限ループからは抜け出すことはできないはずだ。

この俺も世間からすればダメな経営者だし、進化発展することを放棄すれば、それはおのずと崩壊の道しかない。いや、むしろそんな破滅への道を、ある意味楽しみたいと思う気持ちの方が強い。もちろん、ただで死滅することはしないし、おもいっきり悪あがきはするつもりではあるが、それは惨めでもあるけど、そこには自分しかわからない、素晴らし崩壊の美学があるんだよね。

でも最近、本当に白髪も増えたし、髭まで白髪になってきた。目の焦点も合わなくなってきたし、本当に進化でなく老化の現実を肌で感じるようになったな。でも、きっと先輩方は、こうやって自然と崩壊への道を歩んでいったのだろう。

「あの頃はな・・」って、古城の月を眺めながら狼のように吠えていたんだろう。

でも、俺は、ハンパな人間だけども、筋道はきっちり通したいと思う。この道を誰かに継いでもうらおうなんておこがましいことは思っちゃいない。自分達で作り上げたものは、自分達で壊す。それが俺達の散り時であり、クソッタレの美学なんだ。

ただ、その時まで、トップの俺が向くべき方向は、明日からの俺達ではなく、今の利用者なんだ。NOWなんだよな。俺達は過去形でも未来形でもない、現在進行形なんだって、改めて思った。まぁ、現在老化形が正しいけどな。

芸術かぶれした連中が、知ったような面してアンティークにはまるように、それはそれで、何とも言えないエイジングの味がある。だから老化形って、以外にも、美しいんだよね。

俺達は、なんだかんだ言っても、この瞬間のために、どれだけ現場で汗をかけるか、それを身体でどう表現できるか、それが上に立つものとして何よりも大切なんだと思う。どんなに老いて醜い人も、何かしらのプロであり、その背中はやっぱり違う。俺もできることならば、ここにいる大先輩のように、そんな美しい老いを経て散りたいもんだ。

東日本大震災から5年。この時期は、本当に色々と考えさせられる。でも、俺は本当に幸せ者だと思う。こんな幸せがずっと続くかなんて思っちゃいない。そりゃ人間だから、長く続いて欲しいとはもちろん願う。でも、そううまい話なんてない。いつか、地に落ちる時が必ずくるはずだ。でも、その時まで、見苦しくても、恥ずかしくても、これが持続できるようにもがいて生きたい。そうしないと、亡くなった方々に対して申し訳ないと思う。

「当たり前の生活」こそ、何より幸せであり、毎日の「何気ない日常」が本当に有難い。俺もみんなも、きっと明日のことを考えているから辛いし苦しい逃げたいと思う。だから、いつ崩壊してもいい、自分の命すら否定することも少なくない。でも、今日という日はもう二度と来ないことをあの人達から教わったとしたら、その一瞬を全力で謳歌すべきであるし、たとえ明日の「さようなら」が訪れたとしても、その傷は幾分か弱まるはずだろう。

とはいえ、人間は万事、そんな強く生きることなんてできやしないし、明日への恐怖に怯えながら、みんな生きているだけなんだよね。

ガキの頃、失う恐怖も味わったことない平和ボケしていたおかげで、よく平気で『Destroy』と調子こいて言ったもんだ。無知とはいえ、愚かなことだと今は思う。でも、共通しているのは、いつの時代も変わることがなく、自分で壊すのも、他人が壊すのも、自然の力で崩壊されるのも、それはほんの一瞬のことだということなんだよね。

可憐な花もやがて枯れ、そして新しい芽が出てくる。別れがあるから出会いがある。終わりがあるから始まりがある。だから、すべての崩壊を否定すべきではなく、次の新しい時代の幕開けなんだと考えながら、再生を願い続けるしかないんだろう。ただ、そんな人間って強くないと俺は思う。

この桜の季節は特に思う。「俺はいつ散ってもいいな」ってよ。
まぁ、青汁飲みながらですけど。・・・・なんじゃそりゃ。





投稿日:2016/03/15 14:17:07