よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

ボランティア利用者という差別

うちの利用者の中には、金銭的な問題、身寄りがない等の家庭事情から、介護保険以外で、また自費利用とは違う、ボランティアスタッフとして利用をしている人が数名いる。だから、こちらも無理にお金を請求することはなく、それなりに役割を担ってもらい、手伝えることはやってもらうことでその整合性を保ってきた。

介護保険外のオーバーする人もいたけど、基本的にうちは自費利用として1000円を頂いてきたが、それも払えない人もいる。認定外の人も基本は1000円だが、中には「これ以上は払えない」と上限を設定する人もいる。だから、食事代もとれず、おやつ代も請求できず、でも、ここで預からないと困る人は少なからずいた。

通常の利用者とは違う、そんなボランティア利用者がいるということ。それはあくまで善意でやっていることであるが、それが差別を生んでいた。

俺の考えは、食事は他の利用者と同じではまずい。変な話、おかずの一品位減らしたり、おやつのグレードを下げたり、何かしらペナルティがないと他の利用者に対して示しが付かないと考えた。それに、できることはやってもらう、仕事の手伝いをするぐらいの覚悟をしてほしかった。だから、そこにサービスを提供される利用者とそれを与える支援者というより、労働者と雇用主という矛盾する関係性が生まれた。でも、それで多くの苦労があり、俺にとって大切な職員を失うことになってしまった。

でも、それは結果的に、事情がどうであれ、利用者を差別することにつながる。食事内容も違う、おやつも他者とは違うことに、それは介護施設としてあるまじき行為であると指摘された。

そんな人が、ここには3,4人いるけど、俺はそんな人たちと一般利用者との整合性に本当に悩んだ。だって、悪いけど、俺にはそうやることでメリットはほとんどない。あくまで福祉魂でやっているような慈善事業の一環だ。でも、今となっては、他事業所と同じように、「すみません。できません」といえばよかったなぁと思う。

でも、福祉とは「困っている人に、困っている時に手を差し伸べることができるか」だと思っている。それが真の優しさだ。上っ面だけの優しさを振りまいている奴を腐るほど見てきたけど、優しさの押し売りだけはなりたくなかった。だから、色々な事情があっても、介護保険でなくても、俺達でできる支援はしてきたつもりだ。

あるスタッフは「それは差別である」「平等な介護ではない」と切り捨てた。たしかに、おっしゃる通りだと思う。でも、そもそも平等な介護って本当にあるのか疑問だった。

みんなが定食屋に行き、自分が500円を出して定食を食べているのに、横の人はタダで同じものを食べている。それを知ったら、きっとおかしいと思うはずだ。それは利用者の目線で、すでに差別が生まれている。だから俺は、普通の定食じゃなく、うちらが食べる賄いであるべきだし、お金がなかったら皿洗いぐらいしろというのが店主の考えだった。そのことで、店主としての平等の帳尻を合わせてきたつもりだった。ところが、接客する仲間から、それは差別であると指摘を受けて、結局、全員同じものを提供することにした。皿洗いなんかもお願いしない。まったくみんなと同じサービスを平等に行うことにした。

もちろん、店主の俺としては不満は山ほどある。でも、職を賭して、それは差別ではないかと訴えるスタッフの為、それは涙をのむことにした。その代わり、思う存分、自分の理想の介護を貫き通し、この店主が苦渋の決断をした鬱積を解消してほしいと願う。

でも、今はそれなりに利用者がいるからそれができる。これが、利用者が数名しかない小さい定食屋だったとしたら、そんな悠長なことを言えるはずもない。資産家ならまだしも、こんなボロボロの定食屋にそんな余裕もない。それをみんなにわかってもらえない、経営者とは実に孤独なものだ。

ともあれ、俺は、ある利用者に対しては、家族同様に一緒に過ごし、共に病院に行き、年末年始も毎日訪問し、生活全般を支援してきた。もちろん、他の利用者にはそこまで肩入れしてない。そもそも、それがもう不公平の根源なんだと思う。感情を移入こそ、この業界の美学であると訴えてきたが、それが間違っていたのではないかと不安になる。

この前の会議で話をしたけれど、俺はみんなが平等に、優しさに包まれた介護なんてできやしないと思っている。困っている人に、困っている時に手を差し伸べることができればいい。それを救うことが優しさであるし、福祉の根幹だと思っている。

でも、それが結果的に差別を生むことになってしまった現状は、たしかに問題はあると思う。本当に、万民を救うことができるなら、神様にでも慣れるはずだ。

だから、お客さんの立場と、店主の立場、そして接客する立場は三者三様でまったく違うと俺は思う。みんなが平等な、対等な関係になるはずもなく、それは絵に描いた餅だと思う。もちろん、俺が求める「利用者とスタッフの垣根を超える」という理想は大切だけど、今回の一件、その限界の一端を見えた気がする。

ともあれ、俺は今回の一件で、最高のスタッフを一人、失うことになった。本当にショックで落ち込んでいる。そもそも、ボランティアで、困っている人を受け入れること自体、間違っているのかもしれないな。

俺のお節介は、善意のつもりがたくさんの差別を生み、たくさんの人を傷つけてしまったことは事実だ。福祉とは一体何なのか?本当にわからなくなる。

一見、ボランティアって美しく聞こえるけれど、結局は、てめぇの生活に余裕のある奴が、自己満足の為にやっている、公的差別行為なのかもしれないな。

たしかに腹が減って死にそうな人間が、目の前の飯を前に、隣のやつにくれてやるなんて、ただのバカだもんな。

だから、ボランティアを必要とされる社会はよくないかもしれないけれど、逆にボランティアができる社会って、本当に幸せなことなんだと思う。

もっといえば、ボランティアという言葉があること自体、いつまでも福祉国家として成り立たない要因なのかもしれない。

自分のボランティアとしての概念を、もう少し練る必要があると感じた。


投稿日:2016/01/15 15:49:16