よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

弘法大師の先生へ

昨日は、利用者さんがお亡くなり、通夜、葬儀に参列し、有難く弔辞を読ませてもらった。絵描きの先生で、地元ではすごく有名な方。だからこそ、人生の最期を迎える準備段階だったこの時期は、一筋縄ではいかず、色々なことが思い出される。でも、今となっては、過去の話。ぽっかりと穴が開いたような、とても静かな日常が流れている。

認知症による作話があり、「弘法大師とはこのわしだ」と、先生はよく俺達に話をしていた。もちろん、そんなことを鵜呑みにしてたスタッフはいないだろう。でも、結局、その先生の最期は、自ら進んで断食し、僧侶が過酷な修行に挑み、やがて悟りを開くが如く、天に召されていった。

俺達は今まで、デイの枠を超えて様々な活動をしてきた。もちろん、すべてボランティアだ。困っていれば一緒に泊まり、夕食を共にし、時に酒を酌み交わした。末期で利用ができなくても、俺達は常に訪問し、時に介護の手伝いをし、在宅復帰を願い続けてきた。家族愛の復活、その大義に向けて全力で走ってきた。

でも、こうした別れは本当に寂しい。介入しすぎているから余計に悲しくなる。どうしようもならない現実に向き合いながら、時を待つしかできない人間の無力さを感じる。

この仕事は、様々な人達と出会い、別れの繰り返しだ。時に挫折し、虚しいことも度々ある。でも、こうして通夜や葬儀に参列し、ご遺族の方々から、「本当にありがとうございました。」「みちさんに出会えてよかったです」と言ってくれる。弔辞を読ませてもらえば「きっとおやじも喜んでくれていると思います」と深々と頭を下げてくれる。本当に、こちらこそ申し訳なく、有難く、感謝の思いでいっぱいだ。

たしかに、この仕事は辛いこともたくさんある。何度も逃げ出したいと思ったこともある。でも、こうした方々との出会い、別れの繰り返しで、俺は人として生きることを許され、おこがましいかもしれないけど、まともな大人として、ようやく皆さんの一員になれたのではないかと感じる。

こんな落ちこぼれの俺が、ようやく、ほんの少しだけでも、まともな人間として。

たしかに、現世の別れは悲しいけど仕方がない。でも、俺には、そうした、最期を看取れる故人いて、悲しみのどん底から這い上がろうとするご家族様がいる。ここに帰ればいつも笑顔で迎えてくれる利用者や最高の仲間がいる。何気ないこんな日常が、こんな馬鹿っ面の俺を、ここまで成長させてくれたと痛切に思う。

先生が、デイサービスという、輝かしい舞台とは言えないこの場所で残してくれたもの。全盛期に比べれば、似ても似つかない、お世辞にも上手とは言えない寂しい絵が、ここには今でも飾ってある。でも、俺達は、その画を見る度に先生の存在を胸に刻み、同じように苦しんでいる方を助け、明日への希望に繋げていきたいと思う。

先生が、弘法大師だったのか?それはよくわからない。でも、一つだけ、先生の存在は、ものすごく俺達にとっては大きかったこと。そして、これからも、その思いを受け継いでいくこと。そうした微かな光を俺達にもたらせてくれことは、まぎれもない真実だろう。

先生、本当に有難うございました。
合掌。

投稿日:2015/09/11 11:39:14