よりみち

 この“よりみち”は、家長:石津が勝手に、ウンチクを語ることで、「こんな馬鹿な男もいるんだ」と、皆さんに生きる勇気を与える為の文章を載せています。  尚、内容に関しての苦情、反論、哀れみなどはご遠慮ください。強がっているわりには、打たれ弱い性格なので・・。また「憩の家みち」とは何ら関係なく、あくまで個人的主張であることを重ねてご理解ください。

よりみち

福祉は日常から学べ!

俺は高校の講師を非常勤でやっている。本業だけでは食べていけないし、頼まれた手前やるべき職責は全うしようと思っている。でも、そもそも、俺みたいな男が教壇に立つことが間違っている。そんな器ではないし、古いダチからは「女子高生に手を出して新聞に載るなよ」と注意される始末だ。

ガキの頃、授業中うるさかった俺に、先生はチョークを投げてきた。だから俺は後ろの黒板からチョークを逆に倍にして投げ返してやった。それから職員室でこっぴどく怒られた経験がある。まぁ、未だに、俺は悪くないと思っているけどね。

でも、おかげで、色々あったから、なぜか未だに職員室に入る時が一番緊張する。「あっ、石津先生!」「はっ、はい。すいません」っと、つい謝ってしまう。前に働いていた学校の校長先生からは、「石津先生、まず髪の毛を黒く染めてくれないと・・生徒の手前・・・。」と頼まれたときはさすがに恥ずかしかったな。
30も過ぎたおっさんが、校長に染めてこいって・・、情けない。

 でも、教壇に立つ俺はなぜか偉そうだ。嘘かもしれんが、生徒からも授業は楽しいとの声も聞く。そりゃ、脱線ばかりでまともな授業なんてしないから、面白いわな。そんな変な先生は、福祉を教えながらもこんなことを言う。
 「福祉なんて学問じゃねぇ」

こんなこと言っては怒られるかもしれないけど、俺は福祉を教えていて、また今まで福祉を学んで、「本当につまらない」と思っている。偉そうなこと言っても、介護技術?ってほどでもないし、社会福祉士の勉強も、相談援助技術?ってほどでもない。あくまで教科書で学ぶのはほんの1割程度、残りの約9割は実践で十分学べるし、福祉は実践論であると思う。いろんな大学の教授やら偉い権力者達は、長々と論じているけど、よく「福祉」という形のないものについて書けるなぁと逆に尊敬してしまう。
失礼だが、どれも理屈っぽくって、興味が湧かないものばかりだ。

口先だけの理論ではなく、実行こそ福祉の出発点なり。
それが俺の考え方だ。

形のない物、証明できない物を学問として教えることに抵抗を感じる。薄っぺらい理屈で固められた偽善的福祉を語るのにも抵抗を感じる。子供の将来のために、本当に役にたっているのか?人の痛みもわからねぇガキ共に、福祉論を説明したって、無駄とはいわないが、心に響かないものだと思う。

だから、俺は、「福祉の勉強より、国語、社会、数学などの基礎を学べ。この学習は、二の次、三の次でいい。成長期にいる今こそ、将来を見据えて基礎を固め、その後に役に立つ資格を目指せ」と伝えている。

俺が学生に伝えることは、この「福祉」を通じて、人の痛みや苦しみを共感できる気持ちを養うことであり、「自分達でもできる」という自信をつけさせてやることだと思う。自分より弱い人達、社会的な制約を受けて生活をしている人達を知ること、そして、相互扶助、慈悲・慈愛、生と死、というものを伝える、つまり道徳的な授業でいいと思っている。

こんなことを論じては失礼かもしれないが、俺はたまに認知症の方がうらやましいと思う時がある。「今何歳ですか?」の質問に「そうだなぁ、40・・3か4だな」。どう見ても70歳位なのに、そこから歳を取ってないんだ。また、「うちの親父やおふくろも畑仕事毎日やっている」と笑顔で話す人は、もう80歳はゆうに超えている。明らかにいるはずもないけど、その人は「生きている」と信じているんだ。

たとえ病気とはいえ、本人がそう思っていることはとても幸せなことだと思うし、臆病な俺は逆にうらやましく思う。でも、実際、病気と戦っている人たちに対して、「うらやましい」なんて口が裂けても言えない。

だけど、俺が純粋にそう思えるのは、福祉は日常的な教育であると同時に、人間的教育であると思うからなんだ。

世の中には苦しんでいる人はたくさんいる。そうした中で、人のぬくもりに触れ、共感し、感受性を養い、自分の存在価値を高めていくことが大事に思える。言い方を変えれば、その人達をバネにして自分を精神的に成長させることが本当の目的なんだ。

福祉なんて学問じゃねぇ。教授になりたい奴は、理屈ばかり並べて研究室に閉じこもっていればいい。資格を取りたい奴は、問題集を買って試験勉強を徹底的にこなせばいい。
 
ただ、福祉とは、机上の論理だけではない、人間が生きている根幹そのものなんだ。だから、頑張って勉強する必要も、テストでいい点数取る必要もない。本気で人を愛せるかどうか?裏切られ続けても相手を信じられるかどうか?自分を客観的に捉え、冷静に評価できるか?相手の苦しみも己の苦しみと捉え、そこから熱いメッセージを伝えられるかどうか? そんな単純で奥深いものであると思う。

福祉論は、もっと古臭く、人間臭く、熱意や情熱を伝え、挫折と葛藤を繰り返し、常に自問自答しながら繰り広げられることに意義がある。結果、その人の心を変え、自分の心も変えてくれるのだ。能書きや肩書なんていらない。自信を持って挑む力強さと、これでいいのか?という疑念を抱きながら、日々苦悩しながら福祉は学ぶものなのだ。
わざわざ時間を割いてまで教えることでなく、福祉は日常の中から生まれ、学ぶものだと信じている。

とはいえ、せっかく頂いた時間を無駄にはしたくない。貴重な若い一時だから、俺は可能な限り、自らの福祉道を、皆に伝えていきたいと思っている。それが正しいか間違っているかは、各々が判断して、新しい福祉を探せばいいのだ。

福祉の授業で大事なことは、「チョークを投げない」ということだ。
なんだそりゃ?
投稿日:2008/09/01 19:26:10